はじめに
嘉吉の乱といえば、日本史の教科書にも出てくる有名な事件である。ごく簡単に説明しておくと、嘉吉の乱とは、嘉吉元年(1441)6月24日、播磨など三カ国の守護を務めていた赤松満祐が京都の自邸に六代将軍・足利義教を招き、暗殺した事件である。現職の将軍が殺害されたことは、多くの人々に衝撃を与えた。
問題は、その後の幕府の対応である。将軍が暗殺されたにもかかわらず、幕府の対応は非常に遅かった。
赤松氏の治罰の綸旨(天皇による赤松氏討伐命令)が下されたのは8月初めだったので、討伐の決定までにはかなりの時間を要した。そこからさらに時間は経過し、赤松満祐が討伐されたのは同年9月10日のことである。その後、赤松氏のなかには、生き残った者もいたが、滅ぼされた者もいた。運命はさまざまだったのである。
嘉吉の乱の起こった理由については、足利義教のパーソナリティーあるいは政策に求められることが多い。義教は義持の死後に将軍に選ばれたが、それはほかの将軍候補の兄弟の中から籤によって選出されるという方法で、後継の将軍を神慮に委ねたものだった。また、義教は猜疑心の強い人物だったと言われている。
詳しくは本書で取り上げるが、義教は鎌倉公方の足利持氏を討伐し、守護の一色義貫、土岐持頼を討って領国を取り上げるなどした。それだけでなく、意に沿わない公家なども処罰の対象になったので、人々は義教を恐れたといわれている。義教から睨まれた満祐も同じだった。嘉吉の乱以前、満祐は義教から討伐されるとの噂を耳にして、悩乱状態にあったといわれたほどだ。とはいえ、嘉吉の乱が起った要因のすべてを義教のパーソナリティーに押し付けるわけにはいかないだろう。
本書では、守護と幕府の関係と政策、そして赤松氏当主と庶子の問題、当時の社会情勢(一揆の時代)を関連付けながら、検討したものである。赤松氏は惣領家の当主が守護を務めたものの、一族・庶子も幕臣として室町幕府に仕えていた。つまり、惣領家と一族・庶子という関係とはいえ、幕府から見れば同格の存在だった。そして、畿内だけでなく、赤松氏領国の播磨においても一揆が勃発し、地震などの災害に見舞われるなど疲弊していた。嘉吉の乱勃発の要因は、複雑な要素があったのだ。
したがって、嘉吉の乱を考えるとき、義教個人の問題に帰するのではなく、さまざまな要因が複雑に絡み合って勃発したと考えるべきである。本書ではそのような視点から、複雑な要因から勃発した嘉吉の乱について、わかりやすく説くものである。