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心の不調は脳の「使いすぎ」が引き起こしている?!
『「気の持ちよう」の脳科学』より一章ぶんまるまる公開!

メンタルが不調のとき、脳はぼーっと怠けていると思われがちですが実は真逆です。脳は過剰に動きつづけて疲れています。脳はなぜはたらきすぎてしまうのか、5つの要因を解説します。『「気の持ちよう」の脳科学』より一章分をまるごと公開!

要因その1:脳の疾患

  1つ目は、脳血管が詰まったり、脳に腫瘍ができたり、脳が萎縮してしまうなど、脳という臓器の疾患で生じるもので、「身体因性」や「器質性」と呼ばれているものだ。気づかないうちに、脳血管が詰まってしまう脳梗塞や、大事な神経細胞がなんらかの理由でダメージを受けると、その副作用としてメンタルの不調を患うことも多い。また、免疫の過剰反応や甲状腺機能異常など、脳以外の体の影響によって結果的に脳が影響を受けることもある。

  脳腫瘍もその原因のひとつだ。たとえば、1966年、温和で誰からも愛されるような性格だったチャールズ・ホイットマンという25歳の男が、ある朝突然、妻と母を殺害した後、大学に立てこもり、無差別に銃を乱射し、警察に射殺されるまでの間、合計45 名以上の死傷者を出すという悲惨な事件を引き起こした。ホイットマンは以前から頭痛に悩まされており、自分の体には何か異常があるので、死後解剖してほしいと遺書を残していた。死後、解剖して脳を調べてみると、脳の一部にこぶし大の腫瘍が生じており、恐怖や暴力をつかさどる扁桃体を圧迫していたというのだ。

  また、2000年には教師をしていたある男が突然、小児性愛や児童虐待の衝動が抑えられなくなり、妻の連れ子である幼い娘への暴力未遂で逮捕された。その脳を調べてみると、こめかみの部分に卵大の腫瘍ができていた。外科手術によって、その腫瘍を取り除くと衝動は消え去り、何事もなかったかのように穏やかに暮らしたという。ところが、また数年後に衝動が起こり、再検査したところ、また同じ部分に腫瘍ができていたというのだ。再度取り除くと、やはり衝動が消えた。

 このような犯罪も、決して「気が狂った」わけでも「魔が差した」わけでもなく、れっきとした脳の障害が原因で起こっているのである。それがわかったとして、僕たちは犯人を法で裁くことができるのだろうか。その問題に対する議論はまた別の機会に譲るとして、僕たちが「自分で決めてやっている」と思っていることも、実は脳になんらかの障害が生じているせいかもしれないのだ。

要因その2:遺伝的な問題

  2つ目は「遺伝性」といわれているもので、生まれつき持っている性質のことを「内因性」という。脳細胞のはたらき方を決めているのは、神経伝達物質やそれを受け取る受容体や「トランスポーター」と呼ばれるタンパク質だ。

  伝達物質は脳細胞の中で合成されるが、その合成に欠かせないのが「酵素」と呼ばれるこれまたタンパク質だ。タンパク質ならプロテインを毎日飲んでささみを食べているから大丈夫と思う人もいるかもしれないけど、口から摂るタンパク質は消化されてアミノ酸に分解されてしまうので、直接脳に届くわけではない。

  脳の中でどんなタンパク質をどれくらい作るかを決めているのは遺伝子だ。細胞は、ゲノムの上に書かれた遺伝子というタンパク質の設計図を読み取って、指示されたタンパク質をせっせと作り出す。この遺伝情報が載ったゲノムは、否でも応でも両親から受け継ぐものだ。だとすれば、どんなタンパク質が作られやすいかも一部は遺伝によって決まると考えてよい。脳のはたらきに関係するタンパク質の種類によって性格や気質の一部が決められるとしたら、繊細な気配りができるとか、細かいことに気がつきがちでじっくり考えないと気が済まない、などの気質も親譲りということもあるだろう。

 もしそうだとしたら、それは身長や肌の色と同様、メンタルが強い/弱いというのも生まれ持った性質なので、それによって差別を受けたりすることは絶対あってはならないし、それが自分の持って生まれた性質なので、生涯上手く付き合っていくしかない。

  遺伝子が関与していると考えられている例を挙げよう。たとえばこれまで見てきたように体と心の調子を整えるセロトニンという神経修飾物質を細胞内に取り込むタンパク質は「セロトニントランスポーター」と呼ばれている。

  実は、このセロトニントランスポーターを作り出す遺伝子の調節部位には2種類のタイプがあることが知られていて、L(long)型の場合は、遺伝子のはたらきが強くなり、多くのセロトニントランスポーターが作られる。一方でS(short)型の場合は少量しか作られない。

  研究によれば、どんな人もこの2種類の組み合わせ(L/L、S/L、S/S)のいずれかの型を持っていて、L型を持つとうつになりにくく、S型を持つと不安傾向が強く、よりうつになりやすいと考えられ、多くの研究者に受け入れられてきた。

  しかし近年ではさらに研究が進み、この結果が見直され、そう単純な関係ではないかもしれないということが議論されている。そう単純ではないが、無関係ではないということはわかってきているのだが、これについては今後注意して見ていく必要があるだろう。いずれにせよ、このようなタンパク質を作り出す指令が気質の部分に効いてくるという可能性は無視できない。

要因その3:モノアミン仮説

  内因性のもう1つの重要なプレイヤーは、神経伝達物質のはたらき方に関するものだ。これは「うつ病のモノアミン仮説」と呼ばれていて、長年支持されてきたが、近年では疑問視する声も多い。しかし完全に間違いでもないと思うので、慎重に紹介しよう。

 モノアミンというのは、ノルアドレナリンやセロトニンに代表される神経修飾物質の総称で、この物質が脳内でうまくはたらかないことで脳機能にさまざまな影響が出てくるのではないかと考えられている。たしかにこれらの物質は非常に重要な脳と体のはたらきに関与しているので、もしこれが本当に減ってしまうような状態ならばそれは早急に解決しなければならない。逆にいえば、これまでうつという実態のわからない漠然としたものを相手にしてきたけど、言い方は悪いかもしれないが、単に化学物質の過不足といった問題であれば、薬を使えば治せるということでもある。

 そこで、現在主流になっている抗うつ薬や抗不安薬は、特にセロトニンにターゲットを絞っている。というのも一度脳内で放出されたセロトニンは、分解されたり脳細胞に再び取り込まれたりしてしまう。健常者なら脳内のセロトニンの量を維持できるが、うつ病患者ではセロトニンの生産力が落ちていると考えられているため、放出したセロトニンをできるだけ長く脳内に留めておきたい。セロトニンの取り込みに重要な役割を果たすのがセロトニントランスポーターなのだが、このはたらきをブロックすることでセロトニンの再取り込みを阻害することができる。その薬が「セロトニン選択的再取り込み阻害薬」(SSRI)と呼ばれている薬で、実際に処方されている。

 セロトニンが着目されてきた理由としては、うつ病の患者でセロトニンの〝代謝物〞が減少しているということが知られていたり、動物実験レベルでもセロトニン受容体の拮抗薬を投与することによってうつ様行動を作ることができて、セロトニンを増やす薬によって治療の効果があるということが知られてきたことにある。

  さらには、セロトニンの前駆体であるトリプトファンを一切含まない食事を与え続けると、治りかけていたうつ病が再発するということも知られているようだ。ただし、かといってトリプトファンを大量に摂取すればうつになりにくいかというとそういうわけでもないのは注意が必要だ。

 SSRIの問題点は、3人に1人は薬が効かないタイプの「難治性」と呼ばれる病態が存在することだ。また、興味深いことにSSRIが効いたというタイプでも、効果が現れるまでに2〜3週間のタイムラグがあることが知られている。もし脳内のセロトニン量を単に増やすだけでよければ、SSRIを投与してすぐに効果が現れるはずである。さらには、うつが治ったという患者でも結局はセロトニンレベルには変化がなかったともいわれている。

  現在の見解では、セロトニン代謝―つまりセロトニンを受け取って正しく情報を送ったり、分解したりするプロセスそのものが重要であるという考え方や、SSRIの投与によって上昇するセロトニン量に、徐々に神経が順応したり、再生していく過程が重要なのではないかと考えられている。

  うつ病といっても、その原因やメカニズムはさまざまだ。近年では、モノアミン仮説を見直すべきだと主張する言説も出ている。たしかに一種類の化学物質ですべて説明がつくとは思わないが、中には本当にSSRIが効くタイプもある。単純に「うつ病」とひと括りにするのは実態に則していないのかもしれない。したがって将来的には、病態に基づいた細かな分類をするべきなのかもしれない。それは今後の課題だ。

 では、薬が効かないタイプのうつに対してはどのような治療法がとられているのだろうか。

  ひとつは、電気けいれん療法と呼ばれるもので、全身麻酔をし、筋肉を弛緩させた上で、強い電気ショックを与えることで一時的にうつ症状が寛解することが報告されている。また、頭蓋骨の上から微弱な電気や磁気を与える方法も知られており、経頭蓋直流電気刺激法(tDCS)や経頭蓋磁気刺激法(TMS)として、臨床応用がなされている。他にも脳の深部に電極を埋め込んで刺激する方法や、耳の裏側や頸部に存在する迷走神経を電気刺激することでも改善するうつ病もあるといわれている。

  これらの方法の難点は、なぜそれが効くのかというメカニズムが完全には理解されていない点にある。今後さらに研究が進めば、より身近に、そして安全にこれらの脳神経刺激法が利用できる未来が来るかもしれない。

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