ブラッドランド

「社会政策」としての殺戮

ウクライナ、ポーランド、ベラルーシ、バルト三国。西欧諸国とロシアに挟まれたこの地で起きた人類史上最悪のジェノサイド。旧ソ連体制下で歪曲・隠蔽されてきた事実を掘り起こし、殺戮の全貌を初めて明らかにした歴史ノンフィクションがついに学芸文庫に入った。今日の世界で『ブラッドランド』をどう読むべきか? 文庫化を機に、岩波新書『独ソ戦』の著者である現代史家・大木毅氏に特別寄稿をいただいた。

「社会政策」としての殺戮

  早いもので、もう四十年近く前になる。筆者は、大学院の演習で、今日に至るまで大きな影響を受けることになった論文に出会った。シカゴ大学教授(現同大名誉教授)だったミヒャエル・ガイヤーによる「社会政策としての戦争」(Michael Geyer, Krieg als Gesellschaftspolitik. Anmerkungen zu neueren Arbeiten über das Dritte Reich im Zweiten Weltkrieg, in: Archiv für Sozialgeschichte, Bd. XXVI / 1986)である。
 この論文は、ナチス・ドイツ研究に関する当時の最新文献に、集合書評を加えるという体裁ではありながら、実はガイヤー自身による第二次世界大戦像を展開するものだった。その行論と筆致は難解で、筆者も苦労させられたことを記憶している。けれども、戦争には「社会政策」の側面があり、それは征服された国家ばかりではなく、占領した側の社会構造も変えていく、ナチス・ドイツのやったことはまさにそれだとする指摘は、はなはだ刺激的で、筆者の戦争観に一つの軸を与えてくれたように思う。
 もちろん、ここでいう「社会政策」とは、Gesellschaftspolitik という言葉を使っていることからもあきらかなように、福祉など、社会問題を解決するための公共政策を意味する社会政策(こちらはSozialpolitik)ではない。あるいは「社会改編・構築政策」ぐらいに意訳するほうが適切であるのかもしれぬ。ガイヤーによれば、ナチス・ドイツは人種やイデオロギーにもとづくゲゼルシャフトを構築する手段として戦争を遂行し、自らと他者の社会を変容させていったのだ。
 筆者が、ティモシー・スナイダーの『ブラッドランド──ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』(布施由紀子訳、上下巻、筑摩書房、2015年。原書刊行は2010年)に接したとき、想起したのは、まさにこのガイヤーの議論だった。スナイダーは、第一次世界大戦から冷戦時代にかけて、彼が「流血地帯」と呼ぶ中東欧、ヨーロッパ・ロシアにおいて繰り広げられた「社会政策」を、緻密かつ広汎な叙述で描きだしてみせたと筆者には感じられたのである。
 しかも、スナイダーの場合、「社会政策」の手段は戦争にとどまらず、飢餓政策や組織的絶滅政策など「殺戮」も含まれている。加えて、ヒトラーのドイツのみならず、スターリンのソ連もまたそれらを推進した主体であるともされた。『ブラッドランド』原書刊行後、この両者を同一視したということで、スナイダーは一部に批判されたが、今となっては、かかる論難は維持できまい。
 ともあれ、こうした視座より、独ソおのおのの、そして「流血地帯」の諸国民のゲゼルシャフトを見舞った暴力的で血なまぐさい変革が、多数の言語を駆使したスナイダーの筆によって描かれる。
 スターリンの「近代化」強行による飢餓の蔓延、「大テロル」、第二次世界大戦開始後の独ソによるポーランド人殺戮と強制連行、ヒトラーのソ連侵攻以後の住民虐殺……。
 むろん、スナイダーは、読者の残酷趣味を満足させるために、この最暗黒の蛮行を書いたわけではない。「流血地帯」の惨害がけっして偶然に生じた原始的野蛮への回帰ではなく、「社会政策」としての意味を持ち得るがゆえに現実になったことを、事実に即して叙述したものと筆者には思われる。だとすれば──二十世紀の「流血地帯」に生じたことが、いつか、世界のどこかで起こらないとは、なんびとたりとも断言することはできまい。
 そうした不安を杞憂に終わらせるためには、素朴ではあるが、まず何が起こったかを直視することが必要であろう。その意味で『ブラッドランド』が、原書増補改訂版の加筆・修正を反映した上で、ちくま学芸文庫に収められるのは有意義であるし、あらたな読者を広範囲に獲得することを期待したい。
 この憂鬱なる史書は劇薬であるかもしれないが、それだけの薬効を有しているのである。

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