数年前、ほとんど小説を読まない友人になにか読みたいと言われてちくま日本文学の『中島敦』を貸したら、しばらくして「これは最後に全員集合するの?」と言われてのけぞった。
彼は短編小説集という形式にピンときていなくて、李徴も李陵も孔子も悟浄もマリヤンもひとつの世界の住人だと思って読み進めていたのだ。
笑ったけれど、しかし……なんて楽しそうな本なのか。
そのときぼくが幻の長編小説『中島敦』に感じたのは「群像劇」の魅力だった。関係があったりなかったり、関係の仕方もさまざまだったりする人々の衝突やすれ違いが複数の視点で語られ、やがてひとつの世界が見えてくる。普段は主観に縛られて見えないけれど、じつは世界ってこうなのかも、と思わせる。
こういうのに、問答無用に惹かれてしまう。
O・ヘンリーは、20世紀初頭のニューヨークを舞台にした短編小説をたくさん書いた。そこから23編をあつめた『O・ヘンリー ニューヨーク小説集 街の夢』では、個々に独立した話が、全体でひとつの街を描き出している。
もちろんもともとは単独の作品群だから、あっちの登場人物がこっちにも顔を出して、というようなことはなくて、1編ずつ味わうのが基本だろう。でも、一つ一つに笑ったりしみじみしたりしているうちに、気づくと読者は、そのすべての物語の舞台であるおよそ120年前のニューヨークを歩き回っている。
さまざまな事情ともくろみのある人々が行き交う通りで、事がそう思いどおりに運ぶはずはない。だからか、O・ヘンリーの短編には、偶然が重なって固い決心が180度覆ったり、良かれと思ってやったことが裏目に出たり、誰かのひそかな仕事が最後に明かされたりといった結末が目立つ。
そんなひねりの効いた話運びに定評ある作家だから、有名な作品ともなると、細部は知らないが、あらすじだけは知っている、という人も多いだろう。
だが見どころは、じつは細部にこそある。
これらの短編は新聞紙上に掲載されていた。同時代の事件や風俗や社会現象が小説の端々に織り込まれ、ときには話の筋じたいを作っていた。当時の読者なら「ああ、あれね」とすぐわかった、あらすじ以上のものがそこには詰まっているのだ。
地理的・時間的へだたりがいちどは見えにくくしたさまざまな「事情」を想像するのを、この本の解説と訳註と図版と、そして巻末に収録された作家たち――ロシアのザミャーチンとイタリアのパヴェーゼ――のO・ヘンリー論が、助けてくれる。
本書のもとになっているのは編訳者の青山南が担当していた大学の翻訳実践授業の成果で、ぼくもそのうちいくつかに参加していた。凝った比喩や「この「公園」ってどこ?」「このcarって馬車か自動車、どっち?」みたいな疑問にいちいちひっかかり、みんなで2時間唸って一段落も進まない日もあった。
でもそうやって、どうもこうだったらしい、とひとつずつ知るほどに、遠い街もそこで生きる人たちのことも、だんだん放っておけなくなっていた。そんな細部を通じてこそ、当時の世相を取り込んだ小説の街と人はリアルに迫ってくるからだ。
解説で当時の女性の頭髪事情を知ったあとでは、クリスマス物語の古典としてこれまで繰り返し読まれてきた「賢者の贈り物」さえ、響きかたが変わる。デラの「わたしの髪、買っていただけません?」というせりふを、「現実にあった時代と場所に、たしかにいた人の声だ」という実感とともに、読む。
『街の夢』は1冊だけで十二分に楽しめる本だけれど、よかったら前作にあたる『O・ヘンリー ニューヨーク小説集』(ちくま文庫、2015年)も隣に置いてみてほしい。2冊であわせて44編の「ニューヨーク小説」たちが、ますます活き活きと、あの街の群像を語り出すはずだ。