母は死ねない

特集対談:「かくあるべき」家族の形に抵抗する(前編)
河合香織『母は死ねない』(筑摩書房)×武田砂鉄『父ではありませんが』(集英社)

様々な境遇の母親たちの声を聴き取ったノンフィクション『母は死ねない』を刊行した河合香織さんと、“ではない”立場から社会を考える意味を問う『父ではありませんが』を刊行した武田砂鉄さん。タイトルだけならば視点の異なる二冊のようにもみえますが、「家族とはこうあるべき」「人間はこう生きるべき」といった他者からの圧力、視線、呪いのような言葉たちから自由になろうという信念によって書き手二人の問題意識は通底します。人生における「べき論」をほぐす真摯な対談、前編です。



その声は誰の声?

武田
:河合さんの本に出てくる話ではありませんが、以前、失踪した子供が川から遺体で発見される出来事があり、それを報道していたアナウンサーが涙を流したことがありました。そのアナウンサーの妻が妊娠していたこともあり、「だから涙を流したのだ」と報じられていた。その方の感情は偽りのないものだと思いますし、僕自身もとても残念で痛ましい気持ちになりました。そういう痛みって本来絶対に比較しちゃいけないものだと思うんです。でも、そのアナウンサーが「当事者性を持っている」が故に、「そういう人の涙はやっぱり響くものがあるよね」となる。周囲がその当事者性を活用しだすと、やっぱり気になってくる。その発言や行動自体にはなにも問題がないのに、それを利用されてしまうというか

河合:親であるということに限らず、当事者性というのは利用される傾向があるのかもしれません

武田:今はその傾向がすごく強いと思います。外国人労働者や移民・難民の問題でもそう感じます。名古屋の入管施設で亡くなったウィシュマ・サンダマリさんの事件では、遠く離れたスリランカからご家族がやってきて、涙ながらに訴えを続けていらっしゃる。「こんなに辛い思いをしている人たちのことを放っておいてはいけない」といって世論が声を上げた。とても大事なことなんですが、本来であれば、当事者の方たちがズタボロになる前に、社会を変えなきゃいけないはずですよね。そういう思いをさせちゃいけない。ここ数年のMe Too運動でも、日本では伊藤詩織さんがあのように声をあげてあちこちで語られるようになったけれど、本来であれば、本人が誹謗中傷を受け続けるようなことになる前に「これはおかしいです」「どうしてこういうことが起きたのか」と社会が対処していかなきゃいけないわけじゃないですか。当事者の声を大事にする、ということと同時に、当事者自身があげる声に頼りすぎずに、その人たちが痛めつけられる前に、外から働きかけていかなくちゃいけない問題が方々にあるんじゃないかなと思っています。

河合:確かにそう思います。私自身、出生前診断や命の選択について考え続けてきましたが、倫理的な問題が懸念されるアクションを学会等が起こすときには、内部だけで決定せずに公聴会などでステークホルダーに意見を募りますよね。そこで当事者の意見に耳を傾けてくれるのは良いことだけれど、それ以外の第三者の意見はどうやって反映されるのだろうか、と。もちろんパブコメなどに意見を出せばいいのでしょうが、なかなかそういうことができる人も少ない。どんな問題であっても、何の利害関係もない人が、当事者の声なしにその問題に関心を持ってくれるのかどうか。世の中にいろいろな社会課題があるなかでわざわざ考えてくれることはあるのか。

武田:入管問題にしろMe Tooにしろ、当事者の声があったからこそ大きな力が生まれて変わっていった。もちろん、それを信じる気持ちは強いです。

河合:当事者の声はもちろん大事で、同時に、当事者ではない人がほとんどだからこそ、第三者の立場の人も相手のことを考えてみるという視点がもっと必要なのかな、と思いました。どうせわかんないだろうって言われたらおしまいだって武田さんも書かれていましたが、たとえば「親じゃない」人を排除して、当事者の声だけが一番みたいになってしまうのはやっぱり違うのだろうと思います。



【後編へ続く】

 

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