書店のベストセラーコーナーを通りかかると、『頭に来てもアホとは戦うな!』『バカとつき合うな』というタイトルが目に入る。万人が共有できるアホやバカの定義なんてないと思うが、あくまでも個人的に用意してみれば、「人のことをすぐにアホだとかバカだとか決めつけてしまう人」は、アホでバカではないかと思う。
なぜこの手の本が流行るのだろう。今、「コミュニケーション能力」なるものがいたず
らに推奨されていることと無関係ではないだろう。本来、「コミュニケーション」と「能
力」は分離したものであるはずが、いつの間にか人間をジャッジする指標として定着して
しまった。文化庁「国語に関する世論調査」(平成二十八年度)に「コミュニケーション
能力は重要か」との問いがあり、六十代までの各世代の九七%以上が「そう思う」(「どちらかと言えば、そう思う」も含む)と答えている。その中でも驚かされるのが二十代の一〇〇・〇%という結果だ。実に怖い数値だ。いかなるアンケートをとろうとも「そう思わない」という反対意見が一定数生まれるもの。しかし、二十代には、「一〇〇」を少しも動かすことができないほどの人数しか、「コミュニケーション能力を重要だとは思わな
い」人が存在していない。
「誰も彼もが、所詮は己の欲望のために、人の心を操りたがる。組織は、国家は、個人を
全体に奉仕させたがる」、一九九七年に刊行された本書にある斎藤の警鐘は、残念ながら
今を予見していたことになる。権力を持つ人間は、何かを強制するのではなく、望む通り
に動いてもらう民を育成することに力を注いでいる。たとえば、この数年で政府が強引に
押し通した法案のいくつかを思い出そう。特定秘密保護法にしろ、共謀罪にしろ、働き方
改革関連法案にしろ、出入国管理法改正案にしろ、国民の意見をじっくり吸い上げる前に、数の論理で反対の声を踏み潰してみせた。その時、国家は国民に対して、「皆さんに影響するものではないから大丈夫ですよ。あまり気にしないでこちらに任せてくださいね」というメッセージを繰り返した。そう繰り返す中にあっても声高に反対し続ける人は、たちまち「身に覚えのある人」と指を差され、とりわけ特定秘密保護法や共謀罪では、そうやって身に覚えのある人が困るのだから、むしろ、厳しく取り締まったほうがいいよと、従順な国民が量産されていくのだった。規制するのではなく、規制に気付こうとしない、疑おうとしない民を作るのが、権力が管理する上での最も楽な方法である。この時、個人が重要視するコミュニケーション能力とやらが、権力者にとっては便利なものになる。
二〇二〇年東京オリンピックの招致スローガンは「今、ニッポンにはこの夢の力が必要
だ。」だった。これに対して、「夢の力」ってなんだよ、と真顔で突き返した人は少ない。コミュニケーション能力を大切なものだと思いすぎる人たちは、「夢の力」すら受け止めてしまったのか。斎藤がこの文庫化に際しての新章で問題視するように、タダ働きを徹底した五輪ボランティアをはじめとして、あちこちで「人間を操る手段」が行使されている。招致の場で使われた「お・も・て・な・し」は汎用性を高めつづけ、やがて、ボランティア募集PR映像には「おもてなしの日本代表は、あなたです。」というスローガンが躍ることになる。いつのまにか、「おもてなし」は、国民に常備するよう求められる態度になっていたのである。じっくりと時間をかけて人の心に侵入し、奉仕したがる民を作り上げてきた。
幻冬舎・見城徹は、口癖のようにこう言う。「圧倒的努力は必ず報われます。報われな
いのはそれが圧倒的努力ではないからです」(Twitter・二〇一八年十二月十一日)。受け入れがたい考え方だ。ある一定の人々が痛むことを前提にして、圧倒的な勝者を作る。スローガンを投げ、フィーリングで人間を計測する。本気になれよ、とだけ投げる。結果、這い上がってこられない人間を切り捨てる。切り捨てられなかった人間は、当然、言葉をくれた話者に対してリスペクトを表明する。
斎藤は、現代の日本人が直面する「カルト資本主義」の内実について、それぞれの登場
人物や組織に共通していた特徴を列挙している。「情緒的・感覚的であり、論理的・合理
的でない」「現世での成功、とりわけ経済的な利益の追求を肯定する」「ナチズムにも酷似した、優生学的な思想傾向が見られる」などが並ぶ。とにかく、自助努力を促す。あくまでも、自己に責任を背負わせる。熱狂を作り出し、そこに賛同できる人間だけを吸い寄せる。要らない連中を弾き飛ばす。こういう場で、「アホ」や「バカ」という断定が活きてくるのだろうか。即座に自分と他人を差別化し、自分の優位性を主張してみせるのだ。
今、あらゆる場で、ちゃんとした個人であれ、と要請してくる。「ちゃんとした」を規
定するのは、その時々の為政者である。彼らはまず、人間のメンタルを掌握しようとする。力で規制するよりも、制御された空間に大勢を誘い込むほうが、管理がラクチンだから、心をいじくる。正しい人間であれ、と要請される時、その正しい人間を規定したのはどこの誰なのか、それを疑い続けなければ、私たちはたちまち洗脳される。自由な身動きが奪われる。これから二〇二〇年東京オリンピックの開催に向け、行政と企業との結託が続くだろう。文句を言いにくい状態がじわじわ高まるだろう。その時に、自分のメンタルを揺さぶろうとする連中に飲み込まれてはいけない。組織が個人の尊厳をどう揺さぶるのか、という根っこに迫った大著は、改めて「それでいいのか?」と個々に問いかけてくる。今、私たちは自律できているだろうか。