PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

視力検査
明るい後悔・3

PR誌「ちくま」10月号よりモデル・小谷実由さんのエッセイを掲載します。

 サボっていた視力検査を十年ぶりにした。どうしてこんなにも長い間サボっていたかというと、見えない状況に直面しても慣れと記憶でどうにか回避してしまったのと、鮮明に見え過ぎるという状況を恐れたある種の現実逃避をしていたからである。あと、視力検査って昔から苦手だ。文字が見えなかったり間違えたりすると、ブーッと×マークの音が頭の中で聞こえる。早押しクイズかのように検査装置のライトがついた瞬間に即答しないといけないと思ってどんどん焦るし、看護師さんも間違いを重ねるとだんだん怒っているように見えてくるので謝りたくなる。しかし、それらを乗り越えてどうしても視力を改良しなければならない。なぜなら推しのアイドルのライブをしっかり見届けるためだ。
 実は、私はとてつもなく目が悪い。超がつくほどのド近眼である。階段を踏み外すのはよくあることで、家に丸まって転がる毛布を愛猫だと思い話しかけ続ける。メイク時に眉毛を描く際、鏡に近付きすぎて度々鏡にぶつかる。当然の如く日常はコンタクト生活で、家で掛けるのは枠からはみ出すほど分厚いレンズの瓶底眼鏡。裸眼で生活している人がとても羨ましい。朝目覚めた時から眠るまで何も装着しなくても視界良好な世界が存在するなんて! 私は眼鏡をかけたまま寝落ちしてしまい、耳周りの締め付けのだるさと鼻根にくっきりとついた眼鏡の痕をお土産にいつも朝を迎える。
 小学生の時から、どんどんと黒板の文字が霞むようになって眼鏡を掛け始めた。目が悪くなった理由はわかっている。おそらく自分のパソコンを買ってもらったからだ。周りの友達が携帯を持つようになり、私も欲しいと母にせがむと、月々の料金はどうやって払うのと言われた。私は貯金で払う! と自信満々に答えたが、貯金は大きいものを買う時に使うもの! と母は一蹴。それでも私は友人との学校ではなんだか言えないあれこれを話すためにメールがしたかった。大きいものでメールができるもの、と考えた時に浮かんだものが、前述したパソコンである。パソコンを手に入れた私のそれからは、毎晩友人とメールやチャットに明け暮れ、知らない誰かが書いたネット小説を読み漁り、内蔵されていたタイピングゲームをしまくる日々。そんなさなかに黒板を見ているとなんだか文字がぼやけてきたのである。家族の遺伝云々もあると思うが、私の視力低下の決定打はパソコンと共に過ごしたあの日々にあると思う。しかし、そのおかげでタイピングがとても早くなって、ブラインドタッチも習得した。それらを活かし大学生の頃にワープロ検定を取得したけど、結局その資格が自分にどう活きたかは未だ謎である。
 十年ぶりに視力検査をしてコンタクトを新しくした結果、無事に視界が良好になった。道を歩いているときに四車線反対側の歩道を散歩する犬の顔が見えることに気付いた時には非常に感動した。推しもしっかり目に焼き付けることができた。しかし、鮮明になった世界で映し出された自分の肌には新たな問題を多数発見して短い悲鳴を上げた。目が悪いと、都合が悪いことを見ずに済んでいたんだと気付く。でもそろそろそういうのをもう終わりにしようというどこからかのお告げが聞こえる。明日は皮膚科に行くか、とシートマスクをして寝た。
PR誌「ちくま」10月号

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