昨日、なに読んだ?

File 78. なんだかさみしい気がするときに読む本
井伏鱒二『山椒魚』

紙の単行本、文庫本、デジタルのスマホ、タブレット、電子ブックリーダー…かたちは変われど、ひとはいつだって本を読む。気になるあのひとはどんな本を読んでいる? 各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。晶文社より刊行された初の単著『水中の哲学者たち』も大好評の哲学研究者・永井玲衣さんに「なんだかさみしい気がするときに読む本」をお薦めいただきました。

 眠る前になると決まって、わたしは『山椒魚』を取り出して読むのである。さみしいと眠くなり、眠くなるとさみしくなる。そうして『山椒魚』を読む。これがわたしの道理らしい。

 山椒魚は悲しんでいる。棲家である岩屋から出ようとするが、頭が出口につかえて出ることができない。虚勢を張ってみたり、誰かを蔑んだりしてみるが、頭がはまり込んでしまい動くことができないことには変わりはない。「いよいよ出られないというならば、俺にも相当な考えがあるんだ」などと呟いてもみるが、山椒魚には特にうまい考えもないのである。

――どうか諸君に再びお願いがある。山椒魚がかかる常識に没頭することを軽蔑しないでいただきたい。牢獄の見張人といえども、よほど気難しい時ではなくては、終身懲役の囚人が徒に嘆息をもらしたからといって叱りつけはしない。
「ああ寒いほど独りぼっちだ!」
 注意深い心の持主であるならば、山椒魚のすすり泣きの声が岩屋の外にもれているのを聞きのがしはしなかったであろう。

 深刻で切実だが、悲哀に満ちたおかしみがある。それにどこか、筆者がふざけている。真面目なふりをしているが、ふざけているのである。

 独りぼっちの山椒魚のところに、蛙が岩屋に飛び込んでくる。こんな書き方をすると、まるで蛙が助けに来たみたいで、ひどく感動的に思えるが、別にそうではない。山椒魚は蛙を閉じ込め、蛙も意地を張り、延々と口論をする。

「出て行こうと行くまいと、こちらの勝手だ」
「よろしい、いつまでも勝手にしてろ」
「お前は莫迦だ」
「お前は莫迦だ」
 彼等はかかる言葉を幾度となくくり返した。翌日も、その翌日も、同じ言葉で自分を主張し通していたわけである。

 さっきのすすり泣きは一体何だったのか。さっさと脱出に協力してもらえと思う。しかも、そのまま二年も経過してしまうのだ。そうして『山椒魚』は、二匹の奇妙なやりとりで突然終わる。蛙の不可解な台詞があり「ほう」と思ってページをめくると、白紙なのだ。終わりである。本当に、まったくふざけている。

 さてわたしはこの本を中学生のときにたまたま読み、山椒魚とは自分のことだと青ざめた。真面目である。中学生とはそういうものだ。すぐに自分のことだと思ってしまう。だが、いかんせん、わたしの将来の夢は「隠遁生活」だった。岩屋でしゃがみこんでいることが、わたしには似つかわしかった。

 だがそんな風に生きていると、いつか本当に出られなくなるのではないかと恐れた。虚勢を張って、悠々と泳ぐ奴らを冷笑し、蛙を道連れにするだろうと思った。どうしたらいいのかよくわからなくなったわたしは、とりあえずPCのメールアドレスを「sanshouo」にした。馬鹿なのである。性格や生き方を変えるよりも先に、メールアドレスを変えてしまう。とにかく混乱していたのだ。


 それから何年か経った。わたしの母校では高3の卒業間近になると、ひとりひとりが前に出て、今までの思いや感謝を伝える「分かちあい」の授業があった。わたしは、自分が山椒魚のような人間であり、すぐに引きこもってしまうと言った。だがそんなわたしを、友だちが首を掴んで、ずるりとそこから引き抜いてくれるのだと話した。どんなに閉じこもっていても、他なるものはわたしを、時にやさしく、時に乱暴に連れ出す。他なるものは、友だちかもしれないし、社会かもしれないし、見知らぬひとかもしれない。それに岩屋の外でも、おそらくさみしさは消えない。だが、引っこ抜いてもらうことはできるのだ。自力で出るのではなく、誰かの手によって。

 話し終わり、次のひとの番になった。授業が終わり、友だちがやってきて「分かち合いに向けて、しっかり考えてきたようだな」とからかった。「練られてましたね」と別の友だちがニヤニヤしていた。別に練ってもいいだろう。人前で話すことが本当に苦手なのだ。恥ずかしくなって岩屋に戻りたくなったが、まあいいやと思った。

 大人になって、対話の場をひらくことが多くなった。それでもわたしはまだ山椒魚のままだ。泳ぎ回る小魚たちに嫉妬したかと思えば、独りぼっちだとすすり泣いたりもする。蛙とくだらない口論もする。すぐに頭がはまり込んで出られなくなる。そのたびに、誰かに引っこ抜いてもらうしかない。そのことは信じられるようになった。


 余談をする。わたしは分かち合いのとき「山椒魚」という言葉や、井伏鱒二が通じないのではないかと勝手に考え込んだ。そこで咄嗟に「泥の中にいるナマズのような人間なんですが」と言ってしまった。おかげで通じた。ナマズの知名度は高い。

 それから10年ほど経って、わたしはある用事で母校に行った。職員室に立っていると、当時の分かち合いを担当していた先生がわたしを見つけて、ニコニコしながら近づいてきた。

 「あら、お久しぶりですね!覚えていますよ、ナマズのひとですよね?」

 「ナマズ?」と横に立っていた別の先生が小さくつぶやく。「ナマズですか?」「はい」という奇妙な会話をしてしまう。ひとりで勝手に岩屋に閉じこもり、考えすぎるからこんなことになるのだ。友だちはみなわたしの話など忘れただろう。だがこの先生の中では、わたしは10年もの間ずっとナマズのままなのだ。
 

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