ちくまプリマー新書

「ケア」は弱者のための特別な営みではない――生きづらい社会から脱するために
『ケアしケアされ、生きていく』より「はじめに」を公開

洗濯物が溜まっていない、きちんと服が片付けられている、身の回りのそこかしこにケアがあります。生産性至上主義の社会からケア中心の社会への転換を考える、『ケアしケアされ、生きていく』より「はじめに」を公開!

 ケアって、一見すると「弱者のための特別な営み」のように思う人も多いでしょう。でも、実はあなたの日常がなめらかに、つつがなく廻っているのは、普段意識していない、気づかないところで、ケアがうまく埋め込まれているのです。

 例えば、洗濯物や洗い物が溜まっていない、きちんと皿や服が片付けられている、歯ブラシや洗剤、トイレットペーパーのストックが買いそろえられている、布団が干されていて、賞味期限が切れる前に食材がうまく使われ、冷蔵庫のストックは補充されている……。これらは、誰かが気にかけないと維持されない、という意味で、ケアです。また、あなたが今、ここに生きているのは、これまで赤ちゃんの時から膨大な「お世話」を受けてきたからです。親や先生、親戚、近所のママ友、お友だち……にたくさん気にかけて、気遣ってもらったからこそ、生き延びてきたと言えます。つまり、解像度を高めてみると、あなたの身の回りには、ケアがそこかしこにあるのです。

 ジョアン・トロントという政治学者は、ケアに五つの種類があると述べています。1関心を向けること(Caring about)、2配慮すること(Caring for)、3ケアを提供すること(Care giving)、4ケアを受け取ること(Care - receiving)、そして5共に思いやること(Caring with)です。1から4までは比較的皆さんにも想像しやすいと思います。でも、5番目の、共に思いやることって、どういう意味でしょうか? それが本書のテーマです。

 

 ……と言われても、やっぱりケアの話なんて興味がない、そんなの関係ないよ、と思う人も少なくないかもしれません。そこでこの本では、私が見聞きしている三つの世界をつなげながら、ケア中心の社会とは何か、を考えてみたいと思います。

 

 一つ目は、20歳の大学生の世界です。私は20年近く大学生と出会い続け、定点観測しています。今の20歳は、すごく生きづらそうです。真面目な「よい子」で頑張って社会的な評価を得ようとしています。努力すれば報われる、と言われ続けてきました。彼女や彼は「周囲に迷惑をかけてはいけない」を深く内面化しています。周囲の目を気にせずしたいことをするのは「わがままだ」と思い、「迷惑をかけない」ために、必死になって取り繕っています。まるで「他人に迷惑をかけるな憲法」の世界の住人のようです。真面目な努力と「迷惑をかけるな憲法」に従うと、「世間にとって都合のよい子」が生まれていきます。弱肉強食的なシステムに順応するにはもってこいの生き方です。でも、何か大切なことが欠けています。それは、自分のありのままを大切にする、という意味での、「自分へのケア」です。

 二つ目の世界は、6歳の女の子の世界です。私はこの六年間、娘を育てながら、自分自身も学び直し、育ち直してきました。娘の世界には、まだ「他人に迷惑をかけるな憲法」がありません。朝起きた瞬間から夜眠る瞬間まで、好奇心旺盛で動き続け、おしゃべりし続けています。「あそぼー」「おなかすいたー」「つまんない」「ねむたい」と思うことをストレートに伝えてくれます。忖度とか「空気を読む」大学生とは真逆の世界で。娘は世界への信頼感に満ちています。信頼できる親や大人たち、何人もの友だちに囲まれて、護られているという安心感があります。だからこそ、のびのびと自分の気持ちを表現できます。他者から気を配られる(ケアを受け取る)からこそ、自分へのケアができる、そんなケア関係が成立しています。ただ、親や先生が「ちゃんとしなさい」「しっかりしなさい」と子どもに圧力をかけると、このケア関係は簡単に崩れ去ります。そこに「迷惑をかけるな憲法」が植え付けられると、六歳の頃の潑剌さは失われ、「他人の目」におびえる20歳まで一直線です。

 なぜ、こんな落差があるのか。それを考えるのが、三つ目の世界、48歳の私が生きる世界です。私自身も、中学校から猛烈進学塾に通い、偏差値至上主義に染まってきました。小学校の頃は、いじめによる学級崩壊も経験しました。自分や他者への信頼感が失われていくなかで、「良い大学や会社」といった社会の求める標準化・規格化された生き方に合わせようとしてきました。ずっと競争し続けるよう、仕向けられ、やがてそれが当たり前だと感じるようになりました。そんな私が大学院生の頃に、別の世界に出会います。それは、障害のある人と共に生きる世界です。社会の規格からはみ出し、「社会からの落ちこぼれ」「生産性がない」などとラベルを貼られている人々が、魅力的に生きている世界です。この世界を通過すると、逆に「生産性とは何か?」「生きる価値を選別できるのか?」とモヤモヤし始めました。そして6年前に父となり、そのモヤモヤが深まっていきます。「生きる価値があるかどうかに優劣をつける発想自体が、私自身の生きづらさの根底にあるのでは」と。

 誰かを排除し、優劣をつける世界は、実に息苦しい世界です。「そんなこと言っても弱肉強食、勝つか負けるかの世界だから、仕方ないじゃないか」と、20歳の大学生はしばしば言いますし、42歳までの私もどこかで同じように思い込んでいました。でも子どもと6年間、共に時間を過ごす中で、もしかして、そんな「生きづらさ」を超えていく可能性があるのではないか、と思っています。それが、共に思いやる(Caring with)社会です。

 「迷惑をかけるな憲法」に自発的に従うことをやめ、それ以外の可能性を探ること。それは、魂が植民地化された状態から脱する、という意味では、魂の「脱」植民地化でもあります。人生は、先生や親が正しい答え(正解)を知っているわけではありません。少なからぬ親や先生も、その正しい答えに縛られて、正解幻想に苦しんでいます。であれば、その正解幻想を捨て去って、自分のことを信頼し、信頼できる仲間を作りながら、ともに関わり合う、豊かな関係性にもとづく社会を作っていけるのではないか。一人一人が己の唯一無二性を大切にしながら、「他者の他者性」を尊重し、つながっていく。それが、生産性至上主義の社会からケア中心の社会への転換です。

 大風呂敷のようですが、それは可能なのではないか、と私は感じています。「ケア中心の社会なんてできっこないよ!」と「できない100の理由」を述べるのではなく、ではどうしたら可能なのか、と「できる一つの可能性」を模索する。本書であなたとともに考え合いたいのは、そのことです。



『ケアしケアされ、生きていく』

好評発売中!

関連書籍