あなただけの物語のために

2 溶けるもの、溶けないもの (1)

苦い思いをした学生時代から時がたち、そのころの夢が叶ったように見える著者。果たして、これは夢見た物書きの姿だろうかと自問自答する。

 あの苦い日々から、はやン十年。
 わたしはすっかり年を取って、それなりに日々を生きています。なのに、苦くて痛い思いは消え去ってはくれず、ときたまですが浮かび上がってくるのです。
 自分を信じて、諦めないで、努力し続ければ夢は叶う。
 なんて、かっこいい台詞をよく耳にします(春、旅立ちの季節は特に)。でもそれって、さらりと言えるほど簡単なものではない。と、わたしは思うのです。
 だいたい自分をちゃんと信じるって、ものすごく難しくないですか?
 自分を信じる。
 自分を信じられる。
 言葉にするととても単純だけれど、現実の中でこれを実行していくのって至難です。少なくとも、わたしには難しかった……いえ、今でも、難しいままです。
 自分を信じているつもりが、ただの自惚れや思い違いに過ぎなかった。なんて経験を山ほどしてきました。
 夢も諦めませんでした。物書きになりたいという少女のころの夢は、まがりなりにも今、叶っているようにも思えます。でも、やっぱり違っているんですよねえ。わたしは諦めなかったというより、とても執念深かったのです。そして、できることも、やりたいこともほとんどなくて、唯一手の中に残った"書くこと"に縋るしかなかった。物書きになってからも、夢として描いていた物書き像からは、ほど遠い自分に何度も落胆し、挫折感や敗北感に苛まれ、いまだに、夢見た自分からは遠い、あまりに遠いところにいます。だから、他人を妬むし、僻むし、どうしようもないなあと嘆きもします。でも、こつこつと書き続ける自分を好きだと感じる日もあるし、物語の世界に浸れる幸せを嚙み締める一時もあります。「うん、あさの、あんた、なかなかに頑張ってるよ」と自らを褒めたり、鼓舞したり、労わったりできるときもあります。
 それが真実です。
 執念深くて、僻みっぽいくせに自惚れ屋で、しょっちゅう思い違いをしながら書き続けてきたわたしの真実です。この世にたった一つの真実でもあります。
 みなさんの真実は、どんなものでしょうか。
 あなたにはあなたの、あの人にはあの人の、彼女や彼には彼女や彼の真実があります。それがどんなものか、他の人にはわかりません。というか、自分でもよくわからないこともあります。さっき、偉そうに"わたしの真実です"なんて書いちゃいましたが、真実って生命体のようなものです。刻々と変化していくものなのです。良い方向ばかりに変わるのじゃありません。急に萎んだり、色褪せたり、歪になったり、後退したりもします。怪我もするし病にもかかります。だから、正直、わたしが語ることのできる"真実"は過去のものでしかありません。
 だから、余計にわたしの真実を、他の誰かにわかったように語られたくはありません。
 え? そんなに力むほどのものじゃない? 他人の真実なんかに興味はない? ああ、確かにそうでしょうね。有名人のスキャンダルやニュースなら、ちょっと覗いてみたくなりますが……わたしの真実がどうなのかなんて、誰も関心はないでしょう。それはそれで、いいのです。やたら注目され、覗かれ、詮索されるより、無視された方が幸せなんてこと、わりとたくさんありますからね。
 ただね、わたしたち一人一人って、とっても簡単にその他大勢の部類にわけられてしまいますよね。そして、その中でいろんな塊にされてしまうんです。
 塊、です。
 たとえば学生という、サラリーマンという、男という、女という、働く女性という、子どもという、大人という、子育て世代という、高齢者という……ともかく、ともかく、目が回るほどのたくさんの塊に分類されるわけです。
 わたしなら、日本人、女性、高齢者、地方在住者、自由業者、その他いろいろな塊に入れられます。もちろん、それが悪いわけではありません。この国の制度の内で生きていくなら、カテゴライズされることは避けて通れません。必要であるとも思います。
 社会制度上あるいは社会機能を維持していくために必要なわけです。それはそれで重要です、もちろん。
 でもね、それは飽くまで制度としての塊に過ぎません。
 わたしたちは個人です。
 個として生きています。それを踏まえた上でのカテゴライズなら問題はないのですが、現実は問題だらけです(ここで、ちょっとため息など吐(つ)いてしまいました)。制度上の区分に過ぎない塊に、わたしたちはとても多くの場合、というか、ほとんどの場合、吞み込まれてしまうのです。うーん、ちょっと抽象的過ぎますかね。もうちょっと具体的じゃないとわかりにくいですよね。
 えっと、例えばわたしはさっきも書いたように、いろいろな塊に帰属すると思われています。それは、60才になったから年金を受け取れますとか、確定申告のやり方はこうですとか、○○選挙の投票用紙を送付しますとか、この国で生きていくのに有用な情報が入ってくるし、わたしが受けるべき権利を行使する意味でも便利です。
 けれど、わたしは"日本に国籍があり、地方に住んで働いている高齢の女性"だけではありません。それは、わたしのごく一部にしか過ぎないはずです。わたしはわたしで、一個の人間です。他の誰でもないし、塊として溶けたりはしません。生まれたときからそうです。でも、一括りにされちゃいますよね。
 わたしだけでなく、大半の人が一つに括られ、一塊に溶かされてしまいます。今はジェンダーについて語られることも、多様性を論じられることも多くなりました。個を個として認めようとする機運も徐々に高まってはいます(ここに至るまでに、どれだけの人々の努力と闘いと想いがあったでしょうか)。でも、まだまだ、個が個として認められ、尊ばれる社会とは遠いのが現状でしょう。
「あなたは女だから」「きみは男なんだぞ」「○○らしい振る舞いをしなさい」「もう〇歳なんだから、その恰好はおかしい」「もう〇歳なのに、そんなことをしているの」。
 そんな言葉を浴びて生きてきた、生きている人は大勢いるでしょう。どうも、わたしたちが生きている社会は個人を特定の塊に分けて、それを公的、私的の別なく使っているようなのです。
 わたしはわたしの経験からしか発言できません。だから、わたしの小さな、細やかな経験を思い起こしてみれば、「学生らしく(い)」「女性らしく(い)」「母親らしく(い)」「高齢者らしく(い)」……ともかく"らしく(い) "という接尾辞及び助詞にずい分と振り回されて来ました。しかも、さらに質が悪いのは「らしくしなさい」「らしい行動しなさい」と命じて、わたしを塊に溶かし込んだり、一括りにしてしまう力は、わたしの外ばかりではなく内にも存在するという事実があることです。
 そうなのです。わたしは、少女のころ、自分を決めつけられるのが嫌でしかたありませんでした。つまり、塊に溶かされたくない、一括りにされたくないという想いは溢れるほど身の内にあったのです。みなさんは、どうでしょうか? 嫌ではありませんか? おまえはこうだからと他人に決められてしまうのって、すごく居心地悪くないですか? そして、中学生とか高校生とか女性とか少女とか、自分の一部でしかないところを切り取って、そこに合わせて生きることを強要してくる大人たちが嫌いでした。
 なのになのに、自分が大人になったとき、同じような真似を自分の子どもや周りにしっかりしちゃっているのです。
「子どもらしくないこと、言わないの」
「お兄ちゃんなんだから、こうしなさい」
「女の子は女の子らしい恰好をさせないとね」
 なんて台詞を何の引っ掛かりもなく口にしていたのです。そして自分自身をも縛っていました。
 母親だから、母親らしく、母親として。
 わたしは確かに母親でした。でも、物書きになりたいと誰にも告げられない望みを抱いていた者でもあります。その望みが叶う兆しも見えぬまま過ぎていく1日1日に焦燥を抱えた者でもありました。
 そのはずなのに、人は多面体でさまざまな姿をしていると頭ではわかっていたはずなのに、一面だけを強要してくる大人を厭(いと)うていたはずなのに……。いつのまにか、あれほど厭うていたはずの大人になりきって、周りも自分も"○○らしく(い) "の枠内に平気で押し込めていたのです。当たり前のように押し込めていたのです。
 みなさんは、どうですか?
 自分を枠の中に押し込めたりしていませんか。
 自分を自ら大きな塊に溶かし込んで、自分の本心、本音から目を背けていませんか。あるいは、目を向けてはいけないと思い込まされてはいませんか。
 人は溶けません。
 ドロドロに溶けて塊の一部になったりはしないのです。溶けたように見えるだけで、必ず個は残ります。個、です。あなたはあなた、わたしはわたしという個です。どれほどの圧が加わろうと、どれほどの熱が加わろうと溶けない個です。
 人は溶けません。
 でも、溶けてしまうと勘違いする、勘違いさせられることはあります。わたしは、勘違いしまくりでした。
 自分の個はこの世に一つしかなくて、個が紡ぎ出す真実はこの世に一つしかないのです。
 なのに、自分の真実を見ようとしないで、世間とか社会とかの価値観に合わせた"○○らしく(い) "の中で判断しようとしていました。というか、ずっと判断してきました。物書きになりたいという夢をちゃんと語れなかったのも、その夢が世間、社会、周りの認める価値観から外れていると思ったからに他なりません。
 自分を信じて、諦めないで、努力し続ければ夢は叶う。
 耳触りの良いけれど実体のない、でも誰もがよく口にする言葉をわたしも口にしていました。自分の頭と心を通した個の言葉ではなく、どこかから借りてきたに過ぎない、発信元も定かではなく、でも、万人に受け入れられ易い言葉を恥ずかしげもなく振りまいていたのです。ああ、今頃になって赤面してしまいます。したり顔でしゃべっていた過去の愚かなわたしに蹴りを入れてやりたい(いえ、どんな場合も暴力はいけませんね。耳元で『ちょっと、あんた、むちゃくちゃ恥ずかしいよ』と囁(ささや)くぐらいにしときます)。
 もちろん、自分を信じ諦めず、懸命に努力し続け、夢を叶えた人はいます。そういう人が自分の経験を踏まえ言葉にすれば、それはその人の個の言葉となり、真実となります。でも、わたしの場合はそうじゃなくて、借り物の言葉を垂れ流していたに過ぎません。個など、どこにもなかったのです。