あなただけの物語のために

3 数字ではない人間として (2)

自分の奥にあるものを探りながら、表現を掘り下げてみよう

 さてさて、ついさっき、長いお題はイメージを固定化させると言いましたが、固定化させるものと対峙してみましょうか。さらに深く、表現を掘り下げるのです。
 またまた横道にそれますが、機械を使えばまっすぐに深く掘り進めることは可能です。でも人力となるとそうはいきません。なにしろ、表現という層は1メートル、いや、10センチ先に何が埋もれているか想像も付かないのです。とんでもなく硬い岩盤があるかもしれず、地下水脈に突きあたるかもしれず、金鉱やマグマ溜まりに出会うかもしれません。また、まっすぐ掘っていたつもりだったのに、知らぬ間に横に逸れていたり(あ、わたしの横道入りとは別な意味で、です)、くねくね曲がってしまったり、途中でシャベルが折れるアクシデントに見舞われたり、鍾乳洞に辿り着いたり、予測不能、一寸先は闇か光かだれにもわからない。しかも、個々で地質じゃなくて表現質(?)が違う。
 開けてびっくり玉手箱、舌切り雀のつづらの中身です。
 これが、多分、AIとあなたの表現の違いでしょう。与えられた課題をより効果的な、より精巧緻密な、より正確な表現に導くものと、課題から外れてもあなただけの掘り方でもたもたと進んでいくものと。どちらかが良い悪い、勝ち負けではありません。あなたの掘り進み方はAIには真似できないと、それだけを言いたいのです。
 ものを表現していく上で、もたもたはとても大事だとわたしは思います。
 で、第二歩目はもう少し長いお題で、やってみましょう。
 「雪原の上についている二つの足跡」
 「小さな島にあるとんがり屋根の教会」
 「登校中の小学生を窓から見ている黒い猫」等々。
 これらをもとにして、想像を働かせ、文章を綴ってみてください。

 真っ白な雪の上には小さな丸い足跡と二回りも大きな、やはり丸い足跡がついている。この二つの足跡を辿って行ったら何があるのだろう。真っ白な雪の上に乱れた足跡があって、赤い血が散っているのだろうか。

 とんがり屋根の教会には、海からの風が吹きつけていた。窓が開いているのか、風に乗って讃美歌が聞こえてきた。

 わたしは猫です。とても年寄りの猫です。もとは黒猫だったけれど、毛の色も褪せて、ぼさぼさの灰色猫に見えるようです。わたしは、朝、暖かな窓辺に座って外を眺めるのが好きでした。7時を回るころ、窓の下を近所の小学生たちが通ります。
 1年生から6年生まで、5、6人が歩いて学校に向かいます。その中に、ちょっと気になる男の子がいました。

 書けましたか?
 雪の足跡を2匹の犬が遊んでいる風景や親と子ども、あるいは恋人同士の追いかけっこの光景に結び付けた人がいるかもしれませんね。もしかしたら、犯罪者と刑事みたいな組み合わせもありかも‥‥‥。
 教会での結婚式かお葬式の話を書いた人も子ども嫌いの大猫を主人公にした人も、猫は猫でも招き猫やヌイグルミにしちゃった人もいるかと‥‥‥さて、どうでしょうか。
 でも、わたしが書いた雪の上での狩るものと狩られるものの一文なんて、イメージの固定化そのものですね。教会から讃美歌が聞こえてくるのも、窓辺に老いた猫が座っているのも、パターンです。さらに言うなら、猫が気になる男の子(猫が男の子を気にする)という設定も、ガチガチのパターン、どこかで聞いたことも読んだこともあるような展開ではないですか。うわわわわっ、は、恥ずかしい。
 いえいえ、違います。違うんですよ。
 これはわざとです。みなさんに、イメージの固定化、表現のパターン化とは何かを具体的に示すために、わたしはわざと‥‥‥噓です。真っ赤な噓です。わざとなんかじゃありません。わたしなりに、お題に沿って本気で考えて書いてみたのです。で、こんな、どこにでも転がっている話を書いちゃいました。
 締め切りが悪いのだと思います。この原稿の締め切りがもう過ぎちゃっているので、少し焦っていて、それで‥‥‥うう、ここで言い訳をするなんて恥の上塗りでしかありません。要するに、わたしは心を書くことに向けていなかったのです。だから、ついつい、流されてありきたりの筋書きを摑んでしまったのです。
 それが真実。要はわたしの甘さと焦りが悪因なのです。とほっ。
 だから、やはり、もたもたは大切ですね。みなさんは、本を出版したいとか作家になりたいとかではなく、文章で何かを表現したいと考えているのでしょう(むろん、その先に出版とか作家になるとかの結果はあるかもしれませんが)。だとしたら、もたもたしてください。じっくり考えて、自分の内側に何があるのか迷いながら、戸惑いながら文章にしてください。
 わたしは、さっきパターン化を恥じましたが、これはプロなら本当に恥ずかしい、穴があったら入りたい、穴がなければ自分で掘って入りたいというレベルの羞恥です。けれど、みなさんは、今、ともかく書いてください。これはパターン化していないかとか、既成の物語に似ていないかなんて、ひとまず横に置いて、まずは書いてみてください。
 ストーリーなんかむちゃくちゃでいいのです。なくてもいいのです。Xで呟くように、ブログやラインで発信するように、でも、これについて書く(テーマとかお題ですね)という縛りを自分に課して書いてみてください。
 SNSとこうやって文章を綴ることと何が決定的に違うかというと、自分を意識するか他人を意識するか、です。SNSだと、他者を意識せざるを得ません。相手がいる、しかも、複数の相手がいるのですから。でも、自分に向かって書くとき、最初は自分しかいません。つまり、自分が自分にむきあうことになるのです。
 他者を知ることは楽しいです。世界が広がることもあるでしょう。でも、自分を知ることも楽しい‥‥‥だけではないけれど、豊穣なのは間違いありません。まずは、自分を知った上で外へとつながっていく。自分を知りながら他者とつながっていく。そのために、書いてみてください。
 書けば書くほど、あなたの書く力は鍛えられます。スポーツ選手がトレーニングで筋力を鍛えるのと同じです。筋力トレーニングには様々な方法があるのでしょうが(呼吸法とか食事とかストレッチとか。わたしは引き締まったかっこいい身体にはなりたいけれど、いろいろ努力するのが嫌いなので筋トレには近づきません)、書く力を身に付ける方法は、基本的に二つしかありません。
 書き続けることと読み続けることです。
 この二つで確実に力はつきます。
 ある程度までは。
その程度がどの程度なのか、わたしには、はっきりわかっていません。でもおそらく、文章で自分の一部(全てではありません)を表現できたり、今この時の想いを伝えられたりするレベルではないのかなあと考えています。
 それって、すごいことですよね。すごい力ではないですか。
 あれ? いつのまにか、また横道に入っちゃってる。ヤバいぞ、あさの。
 ごめんなさい。えっと、言葉の点検作業でした。
 お題に沿って、幾つかの文章を書いてくれましたね。では、一旦、ノートを閉じてください。一文でも二文でも、短くても単純でも、書けたのなら、あなたの内にはたくさんの豊かな言葉が育っている証です。芋づる式と言いますが、一つの言葉を知っているとその先に、幾つもの幾十もの言葉が連なっているのです。土に埋もれているからわからず、使えないだけです。だから、引っ張り出しましょう。お芋を掘るみたいに。
 根っこの先には大小たくさんの言葉が実っているはずです。
 ノートを閉じたら、次は読み手になってください。お気に入りの本(もちろん、マンガも入ります)を読みふけってみてくれませんか。何冊でも構いません。3日、5日、1週間、読書の時間を少しだけでも取ってみてください。
 そして、その上で、もう一度、書くことに挑戦してみてください。
 「あかいはなたば」、「あおいそら」、「しろいふく」‥‥‥。そして、雪の上の足跡や猫と小学生などに挑んでみてもらいたいのです。
 この前とは、違う何かがあなたの表現に加わっているでしょう。あなたは1冊かそれ以上の本を読みました。言葉を獲得したのです。土の中のお芋を自分の物にしました。だから、あなたの表現、あなたの文章は確実に豊かで、個性的なものになりました。思考も発想もそうです。
 「あかいはなたば」は「赤い花束」ではなく「赤井はなたば」という少女の名前かもしれません。「あおいそら」も「蒼井天」という少年の名かもしれません。
 白い雪は実は小麦粉かもしれないし、足跡は未知の生き物のものかもしれません。教会には手傷を負った兵士が匿(かくま)われ、猫と小学生は何か大切な約束を取り交わしているのかも‥‥‥。書いて書いて、自分を耕してください。もたもたと丁寧に耕された大地はやがて大きな実りをもたらします。あなたは、自分の内の大地に気が付くべきです。これほど実り豊かな自分を知るべきなのです。
 さて、言葉の点検ができたので、次はさらに実践の道を進みます。
 字スケッチをやってみましょう。
 字スケッチというのは‥‥‥あら、もう今回の紙幅が尽きました。どうして? これから字スケッチについて説明するのに。
 そうです。わたしです。わたしの横道入り癖で前に進まなかったのです。
 す、すみません。
 では、次回はさらに長く、深く、書くことに拘(こだわ)ってみましょう。もうぜったいに、横道には逸れません。絶対‥‥‥じゃないかもしれないけど、がんばります。