あなただけの物語のために

5 自分の物語は・・・・・・ (1)

本連載も残すところ2回になりました。あらためて、書くとは、読むとはどんなことかを考えます。

 さて、とうとう、最終章となりました。
 最終章で告白することでもないのですが、わたしは、この連載で〝文章の書き方″とか〝物語創りのアドバイス″とか〝プロの作家になる方法″とかを伝える気はないのです。というか、そんな能力、わたしにはありません。
 ナイショのナイショ、ここだけの話ですが、わたしの書架には『売れる作家の全技術』(大沢在昌 角川書店)とか『作家超サバイバル術!』(中山七里・知念実希人・葉真中顕著 光文社)とかの新人作家(デビュー前の人も含む)向けの本も、その他『○○文章教室』、『○○小説の書き方』なんて実用本もしっかりおいてあります。しかも、かなり読み込んでいます。余談ですが、実用本はともかく、前述の二冊は一線で活躍する作家たちの内面をちらっと覗き見られて、楽しいですよ。
 いや、ことほどさように、わたしは未だに〝書く″という行為がどういうものか、その意味も正しい方法もわかってはいないのです。正しい方法とやらが存在するのかも、わかっていません。
 では、なにをわかっているのか?
 うーん、なにをわかっているのか……難しいです。多分、ほとんどなにもわかっていないし、知らないのだと思います。
 でも、それでは、あまりに無責任なので、もう少し自分の内を掘ってみますね。掘って、金の鉱脈とか油田とかに辿り着けたらいいのですが、あいにく、そんなお宝は埋まっていないようです。
 あえて言えば、自分の言葉、自分の思考、自分の表現こそが最強の自己防衛になる。それくらいは、真理として摑んでいる……気がします。
 前章でわたしは、あなたはあなたを表現する力を手に入れようとしていると、伝えました、そこに噓はありません。わたしはたまに、いや、ときどき、いや、しょっちゅう、小さな噓をついたりもしますが、絶対に噓をついてはならない、真実を語らねばならない時と場合があるということぐらいは、心得ています。
 だから、噓でなく言い切れます。何度でも告げたいと思います。
 あなたはあなたを表現する力を手に入れようとしています。と。
 そして、もう一つ。
 人は人であって、決して人形にはなれない。
 そこもまた、心底から告げたいのです。
 人と人形を分かつもの、その一つが表現する力なのです。ええ、一つに過ぎません。きっと、他にも多くではないけれど、あると思います。
 ただ、わたしは表現、しかも、その内のさらに限られた〝書く″というジャンルについてしか、語れません。
 え? あ、そうですね。これも何度も繰り返していましたね。はい、すみません。すぐに言い訳とか逃げ道を探すのは、わたしの悪い癖です。もっと潔くならねばと、いつも反省はしているのですが。
 そう、わたしは卑小で、往生際が悪くて、そのくせ見栄っ張りで他人に少しでもよく見られたい、褒められたい、認められたいという欲望から逃れきれない自分に辟易(へきえき)はしているのです。ただ、わたしは、まがりなりにも何十年も物書きを続けてきました。出来の良し悪しは別にして、文章を綴り、物語を創ってきたのです。
 そのなかで、わたしはわたしの卑小さや足搔きや自分への嫌悪を受け止めてきました。受け止めて、じっくり眺め、手を加え、さまざまな人たち(わたしの物語の登場人物たちです)に託してきました。
 そうすると、気付くのです。
 そうか、わたしはこんな風に他人を見ていたのか。こんな生き方を望んでいたのか。これに囚(とら)われて、ずっと引きずっているのか。あの人に嫉妬していたのか。怨(うら)んでいたのか。憧れていたのか。こういう未来を夢見ているのか。ここに共感するのか。反発を覚えるのか。好きなのか。厭(いと)うているのか。許せないのか。許してもらいたいのか。
 わたしの内にあって、わたしを形作っていたものの一部に気が付くのです。
 ええもちろん一部です。自分自身も含めて、人というものは得体が知れません。底などないようにさえ感じます。おそらく、自分がどういう人間なのか、100パーセント理解して死んでいく人なんていないんじゃないでしょうか。理解できたと思い込んでいる人はいるかもしれませんが。
 まっ、理解なんてしなくていいんでしょうね、きっと。
 ですから、「あなたのことが、わかる」という台詞にはちょっと用心してくださいね。
 うさんくさいです。
 「あなたのことを理解したい」、「わかりたい」、「知りたい」ならいいのですが、自信たっぷりに「あなたのことがわかる」と言われたら、要注意。
 共感は大切です。共感するのも、してもらうのも大切です。でも、そこには生身の人間の思考と感性が必要じゃないでしょうか。共に感じるためには、頭と心がいりますからね。もちろん、SNSでの「いいね」も共感の一種かもしれません。それは、とても浅いところでの共感です。だから、すぐに変質する軽さがあります。あ、誤解しないでくださいね。軽さは悪ではありません。小さな、軽い共感を受けたり、送ったりすることで満たされていくものも、育っていくものもあるでしょう。「いいね」の数に救われた人もいるかもしれません。それを糧に一歩を踏み出せた人もいるでしょう。そのあたりは、若いあなたの実感を大切にしてください。なにしろ、回りの大人のほとんどは、若い時代にここまで発達したSNSとつきあった経験がないのですから、適切な忠告や助言ができるかどうか心許ないです。少なくとも、わたしにはできません。
 わたしに言えるのは、共感とか想いには二種類あるのでは? と、考えている、それぐらいのことです。速やかに軽くほんの一時のものと、じっくりと深く染み込んでくる重さのあるものと。
 そして、いまは、後者の話をしましょう。前者の「いいね」については、あなたの方がずっとたくさんの情報と経験を持っているでしょうから。
 深い共感の場合、あなたが向き合っているのは、正体の知れない不特定多数の人々ではなく、輪郭のはっきりしたたった一人の相手です。
 実際に現実世界に生きている必要はありません。
 ただ、その人の生き方や言葉、存在にあなたの心が共鳴できればいいのです。
 わたしの場合、それは、マンガや小説の登場人物でした。名前も性別も国籍も瞳や髪の色もわかります。さらに、その心の内、想いまで伝わってきます。わたしは、彼ら彼女たちに心を揺さぶられ、何度も頷(うなず)き、その生き方や思考を追いかけました。それは、今でも続いています。前にも述べた、海外ミステリーだけでなく他のジャンルの本、その登場人物たちにリアルに影響されるのです。
 ちょっと外れますが(え、また? 横道禁止なのではと眉(まゆ)を顰(ひそ)めたあなた、あなたは正しい。大正解。でも、これも大人の事情ということで……ご寛恕を)、わたしは高校生の時『嵐が丘』を読みました。
 ええ、そうです。イギリスの作家、エミリー・ブロンテの長編小説です。初めて読んだとき、10代のわたしは、うんざりしてしまいました。ちっとも面白くなかったのです。
 荒涼たるヨークシャーの風景も、主人公ヒースクリフもキャサリンもみんな暗く、モノトーンの世界に沈み込んでいるように感じました。ただただ暗いだけの、つまらない物語。それが10代の私の『嵐が丘』への正直な感想でした(とはいえ、最後まで読み通さなかった気がします。途中で閉じて、本棚に返して、それでおしまい)。
 その感想が一変するのは、それから20年以上が経ったころです。わたしは40歳手前の大人になり、恋愛も失恋も結婚も出産も挫折も失望も、まあそれなりに経験していました。誰かを裏切ったことも裏切られたこともありました。そういう年齢になったとき、『嵐が丘』を再読したのです。どうして再読したのか、よくわかりません。書斎の本棚の隅に文庫版がひっそりあったのです。その背表紙がちらっと視界に入り、わたしはほとんど無意識に手を伸ばしていました。もしかしたら、リベンジの気持ちでもあったのでしょうか。10代で途中止めした本を今度は、読み通してやるぞ、おーっ。みたいな。
 ともかく、わたしは再び『嵐が丘』を手に取りました。
 夢中になりました。
 そのまま床に座り込み読み続け、夜も布団に入って夜中までページをめくり続けました。
 ヒースクリフのキャサリンへの愛に圧倒され、ただ一人を求め、愛するとは、こんなにも残酷で狂気に満ちたものなのか。愛が破滅を誘い、憎しみしか愛を成就させることはできない。『嵐が丘』はこんなにも恐ろしく、美しく、魂を震わせる恋愛小説だったのか……それが、アラフォーになったわたしの感想でした。そして、自分ならヒースクリフの狂気と憎悪に彩られながらどこまでも一途な愛を受け止め切れるのかなんて、考えてしまいました。考えて、わたしが出した答えは否です。
 共に身を焼きつくす愛情よりも、平凡で代わり映えしない日常を選びます。
 中年の域に入ったわたしは、平凡で代わり映えしない日常の価値と意味を、すでに知っていましたから。10代のわたしなら、ほとんど躊躇(ためら)いなく、身を焼く炎を選んだでしょう。平凡で代わり映えしない日常に何の魅力も感じていない。むしろ、厭うて、厭うて、とことん厭うていました。この絡みついてくる日常を絶ち切って、未知の世界に踏み出したいと心底から願っていました。当然です。10代なんて浮遊する、あるいは飛翔する年ですからね。未来を限定してしまうのではなく、これまでの日常から抜け出していく。未知を求めていく。まさにその時なのですから。
 すみません。話を戻します。
 わたしは、若いとき全く理解できなかったヒースクリフに30代で深い共感を覚えました。10代では感じられなかったものを30代後半になって感じ取れるようになったのでしょうか。年を経て、わたしの内で感性の変化があったのでしょうか。あったのです。だから、ヒースクリフを一部とはいえ理解できたのです。
 そういえば、もう一つ、よく似た読書経験があります。
 え? 横道禁止が全然守られていないって? はい、手短にいきます。でも、横道ってたいていは大きな通りに繫がってるものなんですよ(ほんとか?)。
 10代の時、大好きな女性がいました。本の中にです。
 サマセット・モームの『人間の絆』に出てくる、ミルドレッドという娼婦です。美しく、歪(いびつ)で、金のためなら男を手玉に取ることも騙(だま)すことも、裏切ることも平然とやってのける悪女、堕ちるところまで堕ちた悪女です。
 そのミルドレッドがものすごくかっこよくて、最後、止めるフィリップ(主人公)の手を振り切り、病に侵された身体で客の男を探すために街へと消えていくのです。彼女の行為は、どう見てもどう考えても法に触れ、常識を外れ、道徳からも正義からもほど遠く、社会的にも人としても許されるものではありません。彼女は、弁護しようもないほど堕落した女性なのです。なのに、わたしは強烈に惹かれてしまいました。
 娼婦で、悪女で全く同情の余地のない者をとてつもなくかっこいいと感じさせてくれる。それって、物語の力だなあと感じ入ったものです。
 ところが、1年ほど前に縁あって(?)『人間の絆』を再読したとき、ミルドレッドに凜としたかっこよさより、滅びを自ら選んだ諦念を感じてしまったのです。全ての希望を失った人間の深い諦めと諦めの底にある自己破壊の衝動。
 10代のころは憧れもしたけれど、今は、自分と重なる部分にため息を零(こぼ)すような気持ちです。ヒースクリフにもミルドレッドにも、10代とは違う想いを持ち、違う見方があることに気付かされました。人とはまさに多面体です。だから、自分のどこの面で物語(マンガやアニメも含めて)に触れるかで、見方も感じ方も異なってくるのでしょう。面は年を経れば増えるというものではありません。10代のあなたしか持ち得ない面も、年と共に消えていく面も、反対に年と共に増えていったり、埋まっていたものが露(あらわ)になったりする面もあると思います。