このことに遅ればせながら気が付いたのは、拙(つたな)いながらこつこつと文章を綴(つづ)り、言葉と向き合い、物語を創り始めてからです。
自分の内を通さない物語は、それがどれほど巧みな文章で表現されていたとしても読むに値しないと、わたしは思います。
書き手の個に繫がらない物語が読み手の個に響くわけがないのです。
響かない物語をたくさん書いてきました。書いて駄目で、書いて駄目で、書いて……その繰り返しの日々が続いていたのです。それでも、書くことに見切りをつけなかった理由は二つあります。
一つは他にやりたいことがなかったから、です。
子育てが一段落して、無理をすれば自分のための数時間を捻出できるようになったとき、わたしは自分に問うてみました。
さて、どうする? と。
選択肢は幾つもありました。当時、パートナーが小さな歯科医院をやっていてその事務の手伝いをしていたのですが、窓口業務も担うとか新たに働きに出るとかボランティア活動に精を出すとか趣味を見つけて極めるとか、まあ、その他あれこれあったはずです。でも、どれにも心を動かされませんでした。歯科医院の事務は最低限やるとしても、それはやりたいことではなくやらねばならないことに過ぎませんでした。新しい仕事もボランティア活動も趣味の道も選ぶ気はとんと起きないのです。
やりたいことはただ一つ、書くことだけでした。
他にやりたい何も出てこなかったのです。ちょっと余談になりますが、わたしは、ずっと自分に劣等感を持っていました(今でもたっぷり持っています)。中学、高校のころはそれこそ劣等感塗(まみ)れで、でもそれを気付かれたくなくて装ったり、強がったり、誤魔化したりしていました(これも今でも……です)。とりたてて成績がいいわけでも、何かの才能に秀でているわけでも、容姿に自信があったわけでもなく、いつでもどこでも、中ぐらいの立場にいた自分を誇れずにいたのです。(そういう自信のなさが、自分を語れなかった要因の一つかなあと、この文章を書いてて思いました)。誇れないから、他人が妬ましくなる。クラスに一人や二人、いや三、四人ぐらいはマルチ人間っているじゃないですか。勉強もできて、運動神経もあって、手先も器用で、しかも容姿端麗……とまではいかなくても、そこそこ整った顔立ちをしていて、かつ、スタイルもいいって人。もちろん、程度もありますが、わりと何でも熟(こな)せてしまう人が、わたしは羨ましくてなりませんでした。え、今? うーん、そうですね。やっぱり羨ましいかも。でもね、羨ましいと同時によかったなあという気持ちも、今は抱いているのです。
よかった、一つしかやりたいこと(できること)がなくて。
と。たった一つしかないとなると、それに縋るしかなくなります。悩みも迷いもできません。これが駄目ならあっちでなんて、余裕はないのです。だから、わたしは、たった一つの命綱(?)に縋りつきました。諦めるなんてできませんでした。これを諦めちゃうと後がない。そんな気分だったのです。
えっと、ですから、いろいろ何でもできるマルチ人間さんはもちろん素敵だし、憧れるのだけれど、たった一つしか持たない者もいいんだよと、そういう話です。ほんとの余談でごめんなさい。
ともかく、わたしは書きたいという一つの道しかなくて、だから、諦めも見切りもできず書き続けてきました。そして、さて、どうすると自分に問うたとき……。
このとき、わたしは初めて自分とちゃんと向き合った気がします。
自分で自分に問い、自分で答える。誰かに認めてもらうためではなく、自分だけの答えを見つける。そういう精神的な作業を、本当に生まれて初めてやったと思います。
だから、信じられました。
わたしは書きたいのだ。
その答えを心底から信じることができました。
それが二つ目の理由です。
ずっと周りの価値観とか常識と呼ばれるもの、あるいは、大多数の人に通用するとか、なんだかよくわからない世間、社会に合わせて物事を決めてきたわたしが、自分の頭と心で考え、導き出した答えはわたしにとって、唯一の道標でした。
その道標を辿るように、わたしは書いてきました。その過程で、徐々にですが自分の個を確認していったと思います。
わたしは何を大切にしたいのか。
わたしは何を守りたいのか。
わたしは何と闘おうとしているのか。
わたしは何を感じ、どう生きたいのか。
主語は全て"わたし"です。社会の常識でも、世間の物差しでも、誰かの価値観でもありません。あ、なんて、ちょっとかっこいい台詞を言いましたが一人称で生きていきたい、一人称のわたしとして物語を創りたいというのは決意であって、現実的にできているかというと、怪しいところが多々あります。かっこつけたわりにはグダグダでごめんなさい。
自分で考えているつもりなのに、周りの意見に振り回されていたり、○○らしく振る舞わねばと意に反する行動をしたり、言わねばならぬことを呑み込んだり……はい、しょっちゅうです。でも、その度に、自分で自分に違和感を覚えるようにはなりました。
あれ、わたし、今、自分を偽ってるな。世間とすり合わせて、当たり障りのないことを言ってるな。卑怯な真似をしているな。
なんて、気付けるようにはなりました。気付いた後、訂正したり、改めて主張したりすることも、少しずつですができるようになりました(ほんとに少しずつです)。
書いてきたおかげだと思います。
書くことで自分に向き合い、自分を知って、保って、自分の芯を作っていく。
まだまだ不十分だとは百も承知していますが、よたよたしながらも前に進んではいる気がします。
書くとは、言葉を紡ぐとはそういう力を育んでくれるものなのです。
プロになるとか、作品を仕上げるとか、そういう話をしているわけではありません。自分の想い、感情、理想、幸せ、嫉妬、殺意、希望、絶望……。ここでも、主語は“わたし”ですよ。自分の内の諸々を、あるいは自分の日々の風景を、できごとを言葉に、文章にして表す。その話を、わたしはしたいのです。
書くことは搔くこと。
自分の内に埋まっていたものを搔き出すことにもなるのです。
それは、ちょっと痛い作業ともなります。
自分の卑しさ、醜さ、弱さなどを改めて突き付けられるからです。わたしも、心の底に隠していたそれらにぶつかり、怯みました。
うわあ、わたしってこんなに嫉妬深いんだ。卑小なんだ。弱くて逃げてばかりだったんだ。
なんて、唖然としたものです。でも、同時に、自分にだけは正直になろうとする自分が好きにもなれました。ずっと、あまり好きではなく持て余していた自分をやっと理解して、好きにもなれたのです。
だから、みなさんにも勧めたいのです。
ノートと鉛筆を用意して、あるいはパソコンのキーボードを操作して、ぜひぜひ、言葉で文章で自分を搔き出してみましょうよ、と。
自分を表現する。その方法はたくさんあると思います。絵を描く、彫刻する、楽器を演奏する、歌を歌う、作曲する、踊る、演じる、何かを作る……たくさん、たくさんありますよね。でも、わたしがみなさんに語れるのは、書くことだけです。他の方法をわたしは知りません。だから、たくさんの中の一つだけを取り出して、お話ししますね。もう少し具体的に書いていく過程も話したいと思います。
ただ、どんな表現方法であっても、どうか"個"であることを忘れないでください。溶かされない"個"であることを。それを起点として生きていくのです。
でないと取り込まれますからね。
巷にあふれている、他者の物語に。