俺たちはどう生きるか

【第1回 労働】俺の代わりはいくらでもいる ──自己責任社会で使い捨てにされる男たち〈前編〉

上から叱られたくはないし、下の世代を傷つけたくもない“板ばさみ世代”ど真ん中の著者が、仕事や出世、友達、性、親子関係など、この世代が直面するさまざまな悩みについて考え、出口を探っていきます。今回、取り上げるのは「労働」。「辞めたくても辞められない」など、仕事をめぐってミドル世代が抱える問題について、深掘りしていきます。

「他の選択肢」がどんどん減っていく中で

 中年世代といえば、社会に出てからはや20年近い月日が経っているわけですよね。生まれたての赤ちゃんが立派な大人になるくらいの時間を、私たちはすでに社会人として過ごしている。そう考えると、なんだか空恐ろしいような気もしてきます。ここではそんな世代の「労働」をめぐる問題について考えていけたらと思いますが、みなさんは日々、どのような悩みを抱えながら働いているでしょうか?

 もちろん中堅ともなればライフスタイルは人それぞれで、独身なのか家族がいるのか、都会なのか地方なのか、会社勤めか自営業かなどで働き方はかなり変わるだろうし、業種によっても、立場によっても、個々の価値観によっても、仕事へのスタンスはばらばらとしか言いようがないほど多様なはず。ゆえに一部の事例ですべてを語ることはできませんが、私がこれまで中年男性から見聞きした悩みの中には、例えばこのようなものがありました。

  • 新卒で入った会社で働き続けているが、正直飽きている。でも今さら転職できない
  • もう疲れた。でも家のローンや子どもの教育費などがあり、辞める選択肢はない
  • 無茶な納期や予算など、クライアントから雑な扱いを受けているが、従うしかない
  • ずっと派遣社員で働いている。今はまだいいが、10年後に仕事があるか不安すぎる
  • 出世や子育てをしている同期や同級生に劣等感を抱いている。もはや会いづらい
  • 都会で働くのがしんどい。地元に帰ってのんびり暮らしたいが、地方に仕事がない
  • 身を置く業界が右肩下がりで沈んでいるが、今から別業種に挑戦できる気もしない
  • 慣れと経験で仕事をこなす自分に伸び代を感じず、モチベーションも枯れ気味に
  • プレイヤーとマネジメントの兼務が超ハード。同期が少なく、負担が集中している
  • 今の仕事は向いてないし、給料も安い。でもそれが現実であり結果なのでつらい

 さて、いかがでしょうか。みなさんにも思い当たるものはあったでしょうか。確かにずっと同じ環境で働いていればどこかで飽きを感じていても不思議ではないし、持っている人脈やスキルで仕事を回せるようになった一方、刺激や成長を感じづらくなるというのも身に覚えがあります。ノルマや数値目標に追われつつ、並行して後輩たちのマネジメントを担わねばならないしんどさは中堅ならではという感じがするし、自分自身の現状が、これまでやってきたことに対する通知表のように思えてしまう感覚にも激しく共感です。立場が不安定であることの心もとなさや、人生が順風満帆そうに見える同世代への嫉妬などは、なんの保証もない自営業者の私にとっても極めて切実な問題だなって感じます。

 これらはすべて個人個人の経験で、そこにはそれぞれの事情があるため、安易にまとめることはできません。例えば業界が斜陽だからといって簡単に見切りをつけられないことと、ひどいクライアントのいる環境からなかなか離れられないことは、原因の異なる問題です。また、仕事がないため地方に帰れないことと、家のローンがあるため仕事を変えられないこともまた、別の種類の問題でしょう。

 しかし、多くの事例には「辞めたくても辞められない」「動きたくても動けない」「挑戦してみたいけどできない」といった葛藤が共通しています。そこには立場的な責任や子どもの教育費、会社の事情や経済の状況など、自分ではどうしようもできない事情が絡んでおり、年齢や経歴などにより、他の選択肢がどんどん減っているという背景もあったりする。そういう中で自分を押し殺し、消去法的に現状維持を選択しながら、心身にムチを打って日々の労働をなんとか乗り切っているというのが、ここから読み取れる中年男性のリアルではないかと思います。

文章を書く仕事で食いつないできた私の20年

 私の仕事はフリーランスの文筆業で、かれこれ20年近く出版業界の片隅で働いています。家に本が一冊もない環境で育ち、カルチャーとは縁遠い思春期でしたが、大学で友人に誘われるまま出版系のサークルに入り、そこで雑誌を作る楽しさを味わいました。写真もイラストもデザインもできなかった私はテキストを担当。みんなで作った雑誌が誰かの手に渡るプロセスはとても刺激的で、こういうことを仕事にできたらいいなという思いを抱き、そのままサークルのメンバー5人で小さな制作会社を立ち上げたのが、今の仕事につながる直接のきっかけです。

 コネも経験もないところからスタートし、こうして今に至るまで文章を書く仕事を続けてこられたのは、本当に幸福なことだと思います。中古でパソコンを買い揃え、リサイクルショップで棚や机を探し、部室のような狭い事務所で友人たちと仕事に励んだ日々はめちゃくちゃ青春って感じがするし、初任給8万円だったのが少しずつ稼げるようになり、いろいろ経験しながら仕事と人脈を広げていくプロセスには冒険のようなスリルがありました。そして、ライフワークとして続けていた桃山商事の活動が徐々にライター仕事と重なるようになり、そちらに軸足を移したいという思いもあって32歳のときに独立。そこから12年間、いろんな人の助けを借りながら「恋愛」や「ジェンダー」をテーマとする書き手として仕事を続けてくることができました。

 私は正直、フリーランスの文筆業としては相当に幸運なキャリアを歩んでこられたように思います。駆け出しライターとして働き始めたのは2000年代の後半で、当時からすでに出版不況が叫ばれていたものの、フリーマガジンやウェブメディアが台頭していく時期と重なったこともあり、様々な仕事に恵まれました。当時の業界にはスキルのない若手でもトライアンドエラーを繰り返しながら経験を積む余地があり、食えるだけのお金を稼ぎながら成長していくことができたのも大きかったように思います。そうやって独立後も食いっぱぐれることなくキャリアを積み重ね、何冊かの著書を出版できたり、こうしてメディアに連載を持てたりと、今のところ楽しく働けているというのが私の偽らざる実感です。

 自分でもなかなか頑張ってきたと思う。でも多分、これから収入が増えていくことはまずないでしょう。文筆業は基本的に発注待ちで、メディア側から声をかけてもらえないことには仕事が始まりません。その一方で、ある種の肉体労働的な側面もあり、書ける量には物理的な限界が存在する。学生時代に志した仕事で食い扶持を稼ぎ、夫婦共働きで双子の子育てまでできている現状は客観的に見ても恵まれていると感じますが、それは持てる時間と体力を限度いっぱいまでフル活用してようやく成立しているものであって、これ以上はもう無理だと、はっきり自覚した瞬間がありました。

 40代に入り、体力は明らかに衰えている。それなりに経験は積んできたが、もはや自分の感性が前時代的なものになりつつあることを感じる。日々の仕事と双子育児に追われ、十分なインプットができていない状況は物書きとして致命的な気もする。SNSで炎上するなどしてネガティブなイメージがついたら一瞬ですべての仕事を失いそうだし、出版業界はお世辞にも好景気とは言えない状況で、駆け出しの頃よりも仕事の単価が下がっているという厳しい現実もある。そういう中で私自身も、先の事例に出てきたような悩みをいろいろ抱えています。

すべては自分の努力と選択による結果……なのか

 仕事が楽しくて、バリバリ稼いでいて、心身ともに元気いっぱいで、人間関係にも恵まれ、プライベートも充実していて、腹筋は割れ、貯蓄も潤沢で、歩んできたキャリアにも誇りを持てて、未来に対してもさしたる不安はない──みたいな人は、まあいいと思います。それは努力のたまものであり、環境に恵まれた結果でもあり、この先も順調な人生が続いていくことを祈るばかりです。しかし一方で、そんな人生がフィクションに思えてしまうほど、様々な不安や悩みを抱えながら日々を送っている人も少なくないはず。そして考えたいのが、そういった状況にあることは、はたして〝自己責任〟なのだろうか……ということです。

 男性たちの悩みに耳を傾けていると、ある種の自己責任論的な物言いに結構な頻度で出くわします。先に紹介した事例にも「今の仕事は向いてないし、給料も安い。でもそれが現実であり結果なのでつらい」というものがありましたが、満足いく稼ぎが得られないのも、うまく仕事を進められないのも、嫌なクライアントに当たってしまったのも、思い切った挑戦ができないのも、日々の仕事に退屈しているのも、すべて自分のせいなのだという考えが男性たちの語りの中に垣間見えます。

 そういった感覚は私の中にも少なからずあって、先行きが不安だろうが、仕事の単価が下がろうが、フリーランスという働き方を選んだのは他ならぬ自分自身なわけで、すべて引き受けねばならない問題なのだろうという思いがどうしても拭えないし、満足にインプットができないことも、原稿が思うように進まないことも、結局は自分の能力や努力が不足しているせいなのだと思ってしまう。

 また男性たちのエピソードには、そのような考えを他者から押しつけられた話もよく出てきます。例えば友達に仕事の愚痴を話したとき、「だったら辞めればいいのでは?」と返されてしまったとか、キャリアの専門家に相談をしたところ、「すべて自分で選んだ道」「リスクを取らなかった自分のせい」と発破をかけられたとか……自己責任論的なロジックで説教されたという話は〝あるある〟ですし、SNSなんかでも、ビジネス系インフルエンサーがやたらと強い語気で自己責任論を語るショート動画が頻繁に流れてきます。

 仕事に向いてないことや給料が安いことは自己責任だと語っていた男性が、心の底からそう思っているのか、あるいは自分にそう強く言い聞かせているのかはわかりません。しかし、現実というのは本来、無数の要因が複雑に絡まり合った結果として立ち現れているはずですよね。「今の仕事に向いてない」という部分ひとつ取っても、そもそも無理な仕事を押し付けられていないか、業務内容と担当者のマッチングは適切なのか、周囲との連携はうまく行っているのかなど、関係しているかもしれない要因は多々あるはず。なのにそういう諸々をすっ飛ばし、すべて「自分のせい」にしてしまうのは、いささか乱暴なことのようにも感じます。

 でも、ついそう考えちゃうんですよね……。すべては自分の努力と選択による結果なのだという考えはシンプルでわかりやすいし、自分以外のところに要因を求めようとする行為は〝言い訳〟のように捉えられてしまう。「他人のせいにするな」「現実と向き合え」「嫌なら頑張れ」というメッセージはある意味で前向きで、確かにその通りだと思わざるを得ない部分も多々ある。ゆえに自己責任論は強力で、この社会に生きる者なら誰しも少なからず内面化してしまっているものだと思うわけですが、実はそこには巨大な罠があったりもする。それは「自己責任論=支配者にとって都合がいい」という罠で、個人的にそのことを強烈に痛感したきっかけは、2007年に刊行され、私がライターとして初めて書評を書かせてもらった『ルポ最底辺──不安定就労と野宿』(生田武志)という本でした。(後編につづく)

 

関連書籍