うちには今年三歳になる男の子がいる。世界でいちばん可愛い存在だ(私の主観ではそう思う)が、なんとも謎の存在でもある(これは客観的な事実)。
本に親しんでほしくて、たくさん絵本を買って読み聞かせるようにしているが、最後まで聞いてもらえないことが多い。そして、作品の物語に徹底的に無関心である。その代わりに、絵本の中の断片的な要素――カメ、うさぎ、バス、誰々が転んだ、変な形の街灯など――だけはしっかりと覚えていて、何かの拍子で思い出したら引っ張り出して話題にしたり、まったく関係のない断片を繋げて別の物語をでっちあげたりする。
遊園地にも連れていったことがあるが、とにかくアトラクションの定められた遊び方が退屈らしい。動物園ならどうかと連れて行っても、動物には目もくれず、檻の中を掃除している飼育員さんが気になって、そこに入りたいと言って聞かない。家でもおもちゃよりも、空箱、スピーカー、タオル、絵本、コップ、スプーンなどの日常用品を重ねて置いたり、テープでくっつけたりして謎のオブジェを作ることに情熱を燃やす。三歳児の手にかかるとすべてがその元のコンテクスト(目的や機能)から引き剥がされ、まったく未知のオブジェや空間へと変容してしまう。
青木淳『原っぱと遊園地』(王国社、2004年)の概念を借りるならば、うちの三歳児は「遊園地」を「原っぱ」に変えようとしている。
青木によれば、「原っぱ」とは本来の機能、あるいは目的が宙吊りにされ、無根拠なものとして、改めてそれを使う側の人間によって作り替えられる可能性に開かれた空間であるのに対して、「遊園地」には正しい遊び方があり、それに従うのがよしとされる。従わなかったら単に摘み出されるだけだから、規範性を持つ。
子どもがある空間の目的と機能を無視して、その物理的な性質を自分の関心と興味にしたがって新しい遊び方を開発しようとする。その意味で子どもは「遊園地」の規範性から自由である。
同時に、創造的でもある。
確かに子どもが家にあるモノをその機能を無視して、謎の組み合わせ方で結合することは迷惑ではある。日常生活を普通に送ることを阻害する。でも、息子が作った謎のオブジェは見れば見るほど味わいが出てくるし、その頭の中ではさらに私が想像もつかない何かになっているに違いない。それは私のこれまでの生活に存在したことのない、存在しうるとも思ったことのない類のものだろう。そして、それは日常生活が常にそうでありつづけるのではなく、別様でもありうるという発見をもたらす。日常生活のああしろこうしろという規範から少しばかり解放された気分になれるのだ。
では、少しばかり規範から自由になれるような、「原っぱ」的に作品と向き合う(あるいは向き合わない)方法はあるのか。
ピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』(ちくま学芸文庫、2016年)はそれを提供してくれる。
読んでいない本について語るのは私たちの教養とそれをめぐる規範に悖る行為だとされる。しかし、バイヤールは読んでいないからこそ語れるのだという逆説を提起する。
「本を読んでいる状態」と「本を読んでいない状態」の間に多くの中間状態がある。流し読む、ページを飛ばしながら読む、前書きと後書きだけを読む、中の一章だけを読む、ページを千切りとりながらその断片を組み合わせて読むなどとほとんど無限のグラデーションがある。それでも私たちは本について語れるし、まともな意見を述べることができる。本を規定するのはその内容ではなく、それが身を置くコンテクストだからだ。
さらに、例えば司書のように、読まないからこそ、その本が書物全体においてどういう位置を占めているかを把握することができる。特定の書物にのめり込んでしまうと、全体のつながりを見失ってしまいかねないからだ。
そもそも「本を読んでいる状態」とはどのような状態なのか。作者の意図、本の論述とコンテクストをあまねく理解している状態というのが一般的な理解だろう。でも、それはただの幻想だ。私たちは読んでいる最中でも 、片っ端から忘れていくし、読んでいる時に自分のフィルターをかけて内容を歪めながら「理解」していく。その意味で、本を読むことや本について語ることは対象への没入ではなく、常に自己に関わるある種の批評的な行為である。書物は私たちの自己の中で新たに生まれ直すといってもいい。
三歳児が自己を段々と確立していく過程で、無意識的に絵本やモノを断片化させ、それを別の何かと繋げ、未知の何かに作りあげてしまっているのと同じように、私たちも望もうが望むまいが常にさまざまな書物とコンテクストを横断してしまっている。それを抑圧することで規範が成り立っているわけだが、創造的であろうとすれば、そのような時には受動的とも思われるような横断性を受け入れる必要がある。
このことは単にどのように作品と関わるかだけの問題ではない。作品の読解と鑑賞は一つの社会的な制度であり、規範性を持っている。その意味で、それは世界や現実の規範性一般とどのように関わるか、自由とは何かといった普遍的な問題とも関わっている。
中国の作家、郝景芳が『1984年に生まれて』(中央公論新社、2020年)という小説で、ジョージ・オーウェルの描いた「一九八四年」とは異なるディストピアを描いている。改革開放以降、中国人は確かに以前より遥かに自由になったし、選択肢も増えた。しかし、多くの選択肢があるにもかかわらず、みなある特定の世界観へと逃げ込み、それを絶対化してしまう。そして、彼らの間では、自らの信じる規範――「世界はかくあるべきだ」という世界観(作品では「図景」と呼ばれる)――の押し付け合いが行なわれる。一つの絶対的な遊園地が複数の遊園地になり、それらの間で宣伝合戦が行われるというイメージだ*。そのような新しい不自由なディストピアに対して、この作品は自由になるための解決策を提示する。世界観=図景の横断である。さまざまな世界観を横断し、それを断片化して新たに組み合わせ直すことで、特定の世界観を超えた真の自己を確立する。そしてその自己が人を自由にする。結局、大事なのは何を信じるかではなく、さまざまな信じられる対象と距離を持ち、それらを別のコンテクスト、別の潜在的な可能性へと開くことこそ重要なのだ。
郝景芳の提示する自由はおそらくバイヤールのいう自己に立脚した批評の自由と創造性とはそう異なるものではないが、郝はその危険性も同時に示そうとする。
『1984年に生まれて』の結末部はある種の投げ出しエンドでさまざまな解釈がありうるが、ここの文脈に接続して考えると、不自由な世界、つまりディストピアを正当化し補強するためにこそ、自由や創造性が利用されるという事態が起こりうるという解釈を取り出せる。読書に関して言えば、批評の自由と創造性を確保するために「読んでいない本について堂々と語る」ことの重要性をことさら強調することは、本をまったく読まない世界、本についてステレオタイプなコメントのみが発される世界に再び包摂されてしまう危険性があるということである。それは結果的に自由や創造性のより徹底的な抑圧と破壊につながるだろう。
三歳児は自由にモノを組み合わせてオブジェを作れるが、 家中のものを壊して回り、それらの機能を完全に無視した使い方が許されないのは当然である。三歳児自身の生活もそれによって阻害され、オブジェを作るどころではなくなるからだ。一方、「オブジェは作っていいから、その代わりほかは全部パパの言うことを聞きなさい」といった形で、私の言うことを聞かせるために、その自由を利用するのも許されない。いずれも自由の破壊につながってしまうからだ。
ここには、自由と創造性はあくまで他者や社会が押し付ける規範との拮抗状態においてのみ育まれ、発揮されるというパラドックスがあるように思われる。規範から「十分に」自由になるためには常に「少しばかり」を心がけないといけないのだ。
*郝景芳も含む世代の中国の(SF)作家と彼らが身を置く社会的な背景について私のnote「「中国SF」について書くことについて」で詳しく紹介している。