短短小説

『うれしい悲鳴をあげてくれ』の著者による新しい超短編の世界

 ガレージの奥から自転車を引っ張り出して、掛けてあったナイロン製の薄いカバーを勢い良くはがすと、埃がきらきらと陽光を反射して舞い上がった。つぶれたタイヤに空気を入れ、座面を手で払ってサドルに跨がる。ゆっくりとペダルを漕いでみると、チェーンがキイキイと悲鳴を上げて走り出し、止まろうとすると今度はブレーキがキーッと奇声を上げた。
「あら。やっとあなたも自転車で通勤する気になったのね」玄関から妻が幼い我が子供を抱きながら顔を出した。「これで少しは家計が助かるわ」 
「ああ。こうもガソリンが値上がりされたんじゃ敵わない。すまないが、潤滑オイルのスプレー持って来てくれ」
 妻からオイルを受け取ってチェーンに吹き付け、スーツにリュックサックというアンバランスな格好で会社へと走り出した。リュックは以前に登山用に買っていたものだった。まさかこんな使い方をする日が来るとは思いもしなかった。
 今朝も相変わらず車道に自動車は少ない。ここ一年の急激なガソリン価格の高騰で、ハイブリッドカーに乗っている私ですら自動車通勤を諦めざるを得なくなったのだ。今や通勤時間帯の車道は自転車の大群が占拠しているため、自動車や路線バスは思うようには進まない。もはや自動車で通勤するメリットがなくなってしまったとも言える。

「おはよう」会社に着いて隠れるようにリュックを下ろした。
「おはようございます」部下の男が制汗シートで首元の汗を拭きながら、私の足元のリュックを覗き込んだ。「あれ、部長も自転車にしたんですか」 
「ああ……。もう朝から汗だくだよ。それ、俺にも一枚くれないか」
 会社のフロアはがらんとしていた。数年前はこの部署も百人近く社員がいた。しかし今は数人だけだ。うちのような名のある商社ですらこのような状態なのだから、慢性的な世界経済の不況は危機的な状況を迎えているといえる。
「今日も耳鳴りがひどいなあ」
「ええ。僕もです」  ある時から誰もが当たり前のように〝耳鳴り〟の話題を口にするようになった。どこからともなく聞こえるキーンと鼓膜に張り付くような甲高い音。皆がこれを〝耳鳴り〟と呼んでいたが、本当にただの耳鳴りなのかどうかは、分かっていない。世界中でこの正体不明の音に挑んでいるが、未だに解明に至っていない。現時点で分かっていることは、決して止むことのないこの音に地球上の全ての生き物が悩まされ続けているという事実だけだ。

 自分のデスクに座ってパソコンを立ち上げる。インターネットのトップニュースは、いつものように世界規模の経済破綻にまつわるニュースが並んでいた。先進国の外相が緊急会談、クーデター、日本の失業率が七割を突破、ヨーロッパで反政府デモ、各国で暴徒化した国民が食料を略奪。毎日更新されているはずのニュースが昨日のコピー・アンド・ペーストのように感じられてしまうほど、物騒なニュースにすっかり麻痺してしまっている。
〝日照時間の異変がさらに加速〟
 見出しをクリックしてみると、「前月比で約三十五分、また日照時間が長くなっている」といった気象庁の発表だった。日照時間はここ数年、伸び続けているが、これは過去の推移から見ても急激な数字なのだという。
「おい。またさらに日が長くなってるらしいぞ」
「ははは。もう、日が長くなるとかいう次元じゃないですけどね」
 昔は二十四時間で一日が巡り、日照時間は季節によって長くなったり短くなったりするものだった。しかし、ある時から、そのサイクルが完全に崩れてしまった。今は日が出てから約二十二時間後に日が沈んで夜が訪れ、そのまた約二十二時間後にまた日が昇って朝が来るという、約二日の周期で朝と夜が一周している。そのサイクルは長くなるばかりで短くなることはない。そのため、朝や夜、季節という概念は世界中から消えてしまった。
「今日って、何日だっけ」
「さあ。もう一日という感覚が無くなっていますからね。えーっと、二十五日で金曜日、みたいですね」
 部下の男がデスクの隅に置かれていたデジタル時計を見て答えた。どんなに人間が日付や時間の感覚を失っても、機械だけは正確に時を刻んでいた。
「ってことは、今日は給料日か」
「そうですね。昼飯、久しぶりに生野菜でも食べましょうか」
「そうだな。すこし奮発するか」
 日照時間の異変によって、世界中で植物が枯れ始めた。当然、農作物も例外ではなく、地球規模の食糧難は深刻化の一途をたどっている。今、世界で一番の高級食材は新鮮な野菜である。一斉に植物が枯れ始めたことで地球上の生き物の生態系は崩れ、動物も多くの種が絶滅しているのだという。
「それにしても、今日は特に耳鳴りがひどいな」
「そうですか? いつもと同じじゃないですか」
「いや、今日はきついよ。まるで脳みそが耳鳴りに共鳴して細かく振動してる感じがする。乗り物酔いしたみたいに、今にも吐きそうだよ」
「慣れない自転車に乗ったせいじゃないですか?」部下の男が笑った。「こんな時代でも、人間、すこしくらいは運動しないと」
 運動をすればカロリーを消費する。カロリーを消費すれば何かを食べてその分を補わなければならない。しかし、その食べ物が手に入りにくい。無駄な運動をしないことは、世界中の人間たちのスタンダードなライフ・スタイルになりつつあった。
「ああ、そうかもな。腿がぱんぱんに張って痛いよ。帰りも自転車に乗るんだと思ったら、今から気分が重い。よし……」
 ノートパソコンを閉じて立ち上がると、立ちくらみがして、視界が一瞬ブラック・アウトした。しばらくその場にうずくまる。ようやく収まって、立ち上がろうとするのだが、腿と膝が限界で立ち上がろうとして、またよろけて壁に手を突いた。腕時計が九時半を指していた。
「こんな時間か。じゃあ、まあ、そろそろ会議を始めないとな……」
「……はい」
 フロアにいた社員たちが気怠そうにミーティングルームへと入って行った。

 会議は一向に前向きな意見が出ないまま昼になり、いつものように尻窄みで終わった。食料品の輸入を手がけているこの部署に未来に対する明るい展望などは無いのだから仕方がない。会議とは名ばかりの自虐的な雑談だった。
「さあ、部長。昼飯でも食べに行きましょう。駅前に完全工場生産の新鮮生野菜を扱ってる店が出来たんですよ」
「そうだな……」
「部長、大丈夫ですか? かなり顔色悪いですよ」
「ちょっと、耳鳴りがな……」
「ですよね……。実は僕もだんだん気分が悪くなって来ています」
 その会話を聞いていた社員たちが口々に、私も、私も、と声を上げた。皆が一様に耳鳴りによる不調を訴えている。中には会議中にトイレへ駆け込んだきり出て来ない者もいた。
「どうだろう、今日はもう解散ということにしないか。今の我々に特別急ぎの仕事がある訳じゃない……」
「そうですね。もしかしたらこの部屋に、何かしらのウィルスが蔓延しているのかもしれませんしね」
 一人の賛同した社員が何気なく口にした〝ウィルス〟という不吉な単語が、皆の顔色を一層曇らせた。
「そうですね……」
「それが良いと思います……」
「もう、帰りましょう……」
 全員の意見が纏まるのに、時間は掛からなかった。

「部長、お気をつけて」
「ああ。君たちも気をつけて」
 自転車に跨がって部下たちに手を振った。正午過ぎだというのに、辺りは夕焼けに包まれていた。
 自転車を漕ぎ出すと耳鳴りが一層激しさを増して行くのが分かった。運動不足がたたってペダルを漕ぐ脚に力が入らない。歩道を歩く若者に追い抜かれながら、必死に漕ぎ続けた。キイキイ。朝にオイルを差したはずのチェーンがもう悲鳴を上げている。うるさい。ただでさえ今日はやけに耳鳴りがうるさいというのに。うるさい、うるさい、うるさい、うるさい……!
「うわああああああああ!」
 突然、耳の中をジェット機が通り抜けたような轟音がした。反射的に自転車のブレーキを握りしめると自転車がキーッと奇声を張り上げた。
「何だ……。今のは」
 うずくまって辺りを見渡すと、歩行者も、自転車に乗っていた者たちも皆が、その場で耳を抑えている。あの轟音は皆に聞こえたのかもしれない。
「あれ……」
 次の瞬間、長年悩まされ続けていた耳鳴りがぴたりと止まっているのが分かった。
「消えた。あの音が……しない」
 鼓膜に張り付いていた不快な膜が一枚はがれたような気分がした。久しぶりに聞く耳鳴りのない純粋な街の喧噪に、私は耳を澄ました。懐かしい音だ。深呼吸をして再び走り出した。清々しい鼓膜にキイキイとチェーンの悲鳴が響く。もしも油が完全に切れてしまったらこのペダルは回らなくなるのだろうか。

 その頃、世界中に臨時ニュースが流れていた。
「本日、原油の最後の一滴が採掘されました。同時に地球の自転が完全に停止したとのことです。このため、現在日照のある地域は日照りで砂漠化すると見られ、また、現在日照のない地域は永遠の闇に包まれ疫病が蔓延するものと見られます……」
 臨時ニュースはさらに続く。
「これに合わせ、世界保健機関は世界中に蔓延していた〝耳鳴り〟の完全な終息を発表しました。一説によりますと、あの音は地軸と地球が擦れる際に発生していた音だったのではないかとのこと……」

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