冷やかな頭と熱した舌

第19回 
「あの日」の決意
―さわや書店の10年と自分に足りなかったもの

■病める天才

 竹内さんについて説明するなら、僕は「病める天才」というひと言で充分ではないかと思う。
 竹内さんは僕の小、中、高校の先輩である。とは言っても年齢が8つ離れているので、在学中はもちろんその存在を知るべくもない。後をついて来るとはつゆ知らず、僕がこれから進む道をひと足早く踏み固めながら、盛岡市内で4番手くらいの普通高に入学した。全国偏差値では50を切る名ばかりの進学校で、竹内さんは地元国立大学の人文社会学部に現役で合格する。僕らの高校のレベルでは学年順位がかなり上位でなければ合格しない。進学を希望する生徒にとっては上々の成果を、竹内さんは1年も通わずにあっさりと辞めてしまう。そして信じられないことにその数カ月後、弘前大学の医学部に入学し直したのだ。代々医者の家系というわけではない。特段の理由もなく純粋に興味オンリーで文系から理系へと進路を変えたのだという。しかし、残念ながら医学に対する興味も長くは続かなかった。懇意になった教授に少なくない額のお金を借りたまま出奔、そして中退。盛岡へと舞い戻り、小さな本屋さんでのアルバイトとパチプロという二足の草鞋を穿くも続かなくなって、さわや書店に入社し現在に至る。

昨年、局地的なブームを起こした文庫川柳は竹内さんの発案

  20年ほど勤めた現在は「辞める」病(やまい)は再発していない。わずかに医道への未練が垣間見えるのは看護師の奥さんと所帯を持ったことくらいだろうか。周囲の天才との評価はダテではなく、誰も考えつかない切り口で構成される売り場とフェアは、ときに誰にも理解されなかったりする。

 そんな竹内さんと田口さんのどちらが上盛岡店の店長になるかが当面の問題だったが、ほどなくして年齢も社歴も上の竹内さんが、店長として異動するという内示が出た。一緒に励まし合って頑張ってきた僕ら同世代4人のなかから、店長が誕生したのは素直に嬉しかった。郊外店のハウツーを持たない我々さわや書店のモデル店。竹内店長は孤軍奮闘して売り上げを伸ばしたが、限られた商圏や認知度が上がらないこと、固定費の高さなどから利益を出すことはなかなか難しかった。

■「外商」に活路を見出した専門書のスペシャリスト

 一方、本店の2階フロアの売上は危険水域が近くなり、専門書という扱いの難しいジャンルのスペシャリストとして勤めていた栗澤さんを、2階フロア専属として配置することが難しくなっていた。フェザン店の2人を対岸の火事とばかりに見ていた僕ら本店組だったが、社員1名で1、2階フロアを合わせて運営することが決められ、栗澤さんか僕が、本店を去らなければならない状況が訪れたのだった。こちらに燃え移った火の勢いのほうが強い。大火である。そんな折、フェザン店から栗澤さんが得意とする分野を強化した売り場を作りたいとの申し出があり、請われる形で栗澤さんの異動が決まった。渡りに船とばかりにすでに鎮火した対岸へと栗澤さんは渡っていったのだった。
 残された僕は、伊藤店長が作り上げたさわや書店本店という期待を裏切らないように、自分の判断というよりも「伊藤店長ならこうするだろう」という基準のもとにすべてを判断していった。

 栗澤さんが異動した先のフェザン店では、数年間おおきな問題はなかったが、2011年の震災をきっかけとして新たな局面へと動き出した。
 震災で傷ついた故郷・岩手県のこれからのことを考えると、本屋が復興に貢献できることがあるのではないかとの議論が社内で交わされ、そのためには地域との連携が不可欠であるとの結論に落ち着いた。それならば、誰かが外商部として活動し「顔役」を勤めなければならないだろうとの意見が大勢をしめたが、手を挙げる者は誰もいなかった。未開拓の分野、苛酷な外商。苦労が目に見えているのに、誰がやるというのだろう。
 決定が棚上げされたまま数日が過ぎ、火中の栗をすすんで拾ってくれたのが栗澤さんだった。相当の覚悟がいったことは察するに余りある。それまでのキャリアを捨て、一から積み上げることを決意した栗澤さんは現在、外商部の部長としてバリバリ働いている。集会や講演会に出張販売に行くことはもちろん、そこで築いた人脈によって講演会を主催したりと、店頭では生み出せない新たなる売り上げを創出している(もちろん、栗澤さんの酒量はそれに比例して増えた)。5月の新店舗のコンセプト「体験型」も、栗澤さんが地道に積み上げてきた活動の延長線上にある。一方で2017年3月末、上盛岡店はひっそりと閉店を迎えた。社長のスクラップ&ビルドの精神は、今なお健在である。

■自分に足りなかったもの

 伊藤店長の退職以来、大池さんを旗振り役に4人で現場をやってきた日々。3人が自分の場所を定めて活躍の場を広げるなかで、僕ひとりが置いていかれたような気がしていた。他の3人はいつも「4人で」と言ってくれたが、僕はどこかで引け目を感じていた。最終的に責任を問われることのない自分の発言は軽い。他の3人に比べて、どうしても軽いのだ。そのことを悔しく思った僕は、ふがいない自分への戒めとしてプライベートでも付き合いのある3人の呼び名に必ず「店長」をつけて呼ぶことを、自らに課した(ただし、栗澤さんだけは「栗澤宴会部長」と呼んでしまいそうになるので、栗澤さんのままだった)。次長職に徹して「いつか」に備える。自分にできる精一杯のサポートをしようとの決意を固めたつもりだった。
 伊藤店長がいなくなってしまった「あの日」と、自分を押し殺すと決めた「あの日」。望まずに訪れた「あの日」からの日々と、自らの決意によって選び取った「あの日」からの日々。どちらの日々が僕をより成長させただろう。決意のあの日は、僕を成長させたのだろうかと自問するが、自信はない。むしろ一歩引いたことは、誤った選択だったかもしれない。
 だがこうも考える。決意自体が誤りだったわけではなく、決意した後の日々のなかでどれだけ具体的に「いつか」を頭に置いて日々を過ごしてきたかだと。僕に足りなかったのはそこだ。だって、いざ訪れた「いつか」に、いまの僕はこんなにも困惑している。何も考えずにがむしゃらに過ごし、できることをやるしかないと過ごした日々の先に、僕はいま立っている。「いつか」に備えなかった僕は、「これから」の日々のことを、いま必死に考えている最中だ。
 反省を含め振り返って思うことは、サポートに徹することを決めた「あの日」以前から多分に優柔不断だった僕だが、自ら何かを決定し責任を取ることが、こんなにも怖いことだったのかということだ。3人に対し尊敬を込めて「店長」「宴会部長」と敬称をつけて呼ぶ日々は、まだまだ続きそうである。
 もしかしたら、いつの間にか船の漕ぎ方を忘れてしまった僕の船だけ、山に登るかも知れない。【本文終わり】


【次ページにて、さわや書店の新店開店までの店長日記を公開中】

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