ちくま文庫

末の末っ子が読む『末の末っ子』
阿川弘之『末の末っ子』解説

阿川弘之『末の末っ子』は、「末の末っ子」誕生を控えた実在の阿川一家をモデルとした昭和ファミリー小説です。そこで本書の解説は、阿川弘之氏三男にして「末の末っ子」ご当人の阿川淳之さんにお願いしました。当事者ならではのエピソードがふんだんに詰まった一篇をここに公開いたします!

 まず自己紹介から始めなくてはならないが、私はこの本の最後の方に生まれてくる篤のモデルとなった、阿川弘之の三男、四人きょうだいの末っ子である。当時としても四人の子供がいる家庭はそう多くなく、作中でも作家仲間に何かとからかわれているが、おまけに我が家の場合、きょうだい間の年齢差が上から順に二歳、八歳、十一歳とだんだん大きくなるという構造であったため、余計に人様からは面白がられたようである。私が生まれたとき、父五十一、母は四十四、長男二十一、長女十八、次男十である。さらに言えば、父も祖父と祖母が相当年を取ってから出来た末っ子だったため、私の代には年の差が倍になって襲ってきた。結果、私のいとこは母と同い年、などということが起きる。実際、小さい頃はいとこからお年玉をもらっても不思議に思わなかったものだし、それ以外にも小学校四年で甥っ子が出来たとか、祖父というものには会ったことが無いとか、末っ子の末の末っ子(?)であるがゆえの不思議な状況というのは多くあって、子供のころ、それがなんとなく嫌だった。とは言え、良いことも幾つかあり、まず父が比較的優しかった。これはきょうだいに言わせると驚くべき違いだそうだ。
 父は血気盛んだったころ、つまりこの小説を発表する少し前あたりまでは本当に自分勝手、傍若無人な人間だったようである。兄や姉によれば、父は気が立っているときなどは特にその傾向が強くなり、おとなしく遊んでいる兄と姉に向かって「お前たちがそこにいる気配がうるさい、どこか外に行ってくれ」とか、「女に人権は無いから口答えはするな」とか、無茶苦茶なことを言っていたそうだ。父の性格が多少穏やかになってから生まれた私はその点恵まれており、そういう目に遭ったことは殆ど無い。一回だけ何かの拍子にベルトで尻を叩かれそうになったが、いつの間にか次兄に怒りの矛先が向かい、結果として私は尻を叩かれず、次兄がなぜか家を叩きだされるという憂き目に遭った。そういうわけで、なんだか末っ子のお前は得をしている、というのが家族内の私に対する評価である。
 私にとっては祖父のような年齢の父は、若い頃から何事も億劫に感じる性質であったが、六十を超えたあたりからいよいよ全てのことが面倒になった。繰り返すが父六十は私八つである。小学校に上がったか上がらないかくらいの私に父はいつも、俺はもう何もかも面倒だ、旨いものだけ食べてこのままコロっと逝けたらなあ、などと言っていた。そんな父が面倒を感じずにエンジョイできるのは麻雀、パチンコ、花札など賭け事全般、家でゆっくり食べる夕食と酒、それからハワイに行くことだった。この小説中、主人公が電話をかけては麻雀の約束を取りつける吉田という作家が登場するが、これは吉行淳之介さんがモデルである。父とほぼ同世代の作家仲間且つ賭け事仲間、吉行淳之介さんは私を可愛がって下さった。元来病気がちな方であったが、元気なときには横浜の我が家にお越しになり、父と雀卓を囲んでいた。あちこち痛い痛いとお嘆きになり、私が中学、高校生くらいの時にはよく吉行さんの背中を押して階段を上るお手伝いをしたものである。私の名前自体、父が吉行さんに断わって一文字いただいたものなので(あとで二文字使っていると気づいた吉行さんが父に指摘した)、私は吉行さんをゴッドファーザーと呼びならわし、上野毛のご自宅で療養中の吉行さんに映画「ゴッドファーザー」のビデオをお届けしたこともある。おおよく来たな淳之、ととても喜んでくださり、ご愛用の缶ピースを「淳之も吸うか」と勧められて、なんだか大人になったような、認めてもらったような誇らしい気持ちになったのを昨日のことのように思いだす。
 進藤蟻食亭はもちろん狐狸庵遠藤周作さんがモデルである。遠藤さんは吉行さんと違い賭け事はなさらなかったが、いたずら好きで、父とはいつも冗談を言い合う仲、作中にも少し登場するが、駄洒落ばかりの戯文を交わして遊んでいた。私が小さい時に習字の練習と称して毛筆の往復書簡を幾つも交わしており、町田奉行と称する遠藤さんからの、「この者幼少より御禁制の賭博に耽り身を持ち崩し、亦軍歌を咆哮して近隣の眠りを妨ぐること度々也」などという手紙が残っている。こういうやり取りをしている時、父は世間の雑事一般から逃れることが出来て、楽しかったのだろう。
 吉行さんは平成六年、遠藤さんは平成八年に相次いで亡くなった。気の置けない友を立て続けに失った父は、この頃から老いていったように思う。平成八年に私は就職し、父の家を出た。きょうだい達はとうの昔にそれぞれに独立していたので、七十五歳にして、母と二人の暮らしがまた始まったわけである。おととし(平成二十七年)九十四で亡くなるまでの丸々二十年間、父は徐々に、しかし着実に老いていった。折に触れ会いに行くと父はそれなりに嬉しそうな顔をしたが、だんだんと自分の体が言うことを聞かなくなるのが少し悔しそうに見えた。特に最後の三年半は病院に入り、思うように動かなくなった足を見つめながら、本当は家に戻りたいんだが無理かな、と寂しそうに言った。
 老いとともに少しずつ穏やかになっていったとは言え、父は基本的に気難しい性格で、特に家族に対して余計にそうなる傾向にあった。本作品には賑やかな家族の団らんの様子が描かれているが、晩年はなるべくひっそりと、静かにしていたい、と常々言い、自然外出も来客も減り、家で静かにじっとしている時間が長くなったが、何かの拍子に生来持っていた気難しい性格や癇癪が家族に対して現れることもあった。それなのに、なぜか赤の他人に対しては異常なくらい気を遣い、例えば宅配便や郵便局の方にはとにかく優しかった。呼び鈴や電話が鳴り平穏が乱されるのが嫌いなので、宅配便などは最も憎むべき存在のはずなのに、自分が戸口に出た時には「本当にご苦労様」などと、みかんのひとつかふたつ用意して労い、ひどく感じが良かった。じかに対面した相手に悪い印象を与えるのが嫌という外面の良さに起因していたのだと思うが、「宅配便の人には随分優しいんだねえ」と家族は驚くばかりだった。
 晩年に父の入っていた病院のスタッフはこう言った。
「先生は本当に優しくて、ユーモアがあって、いつも面白いお話をしてくださるので、私たち、皆先生の大ファンなんです」
 俄かには信じがたいほどの人気振りだったが、父が長い病院生活で、看護師たちを相手に少々の愛想とユーモアを振りまいて、気を紛らわせていたのなら、息子としては嬉しく思う。
 ほぼ寝たきりとなった父の病室での楽しみは食事と読書であった。単調になりがちな病院食に追加して、家族がたまに病室に持ち込むチーズなどを肴に少しビールや日本酒を嗜むことをこの上ない楽しみとしていた。読書については、私や姉に電話をしてきて、今度来るときにこれ買って来い、あれ買ってきてくれ、と頼むのだが、こちらもそうたびたび見舞いには行けない。そこで私がネットショッピングで本を注文し、病院を届け先に指定するという仕組みを考え出した。父が私に電話をかけてきて、私はそれをインターネットで注文するのである。これにより飛躍的に本の購入が容易になり、父がどんどん本を注文するので病室が図書館のようになった。
 ある日いつものように私に電話注文が入ったので、「オーケー、すぐに発注しておくよ」というと、「待て淳之、今日は日曜日だ。アマゾンに悪いじゃないか」。
 インターネットというものを理解していない父ならではの発言ではあるが、ネットの先のアマゾンさんにまで気を遣っている父を見て、私はおかしかった。
 作中、「あの子が大学を出るまで、あと二十五年は、健康で稼いでてもらわんと」と親戚に説教される場面があるが、五十代で子を設けた父は私が大学を出て、さらにしばらく生きた。昭和四十年代の家族の情景を描いたこの小説、私自身は本物の父や家族を頭の中で重ね合わせずに読むことが出来ないが、純粋に少し風変りな昭和の一家族を描いたものとして読んでもらえれば、父は満足だろうと思う。