さかのぼること七年前、吉祥寺のレンタルビデオ屋の一角で、少しほこりをかぶったそのVHSを手にとった。『青空娘』という可愛らしいタイトル、パッケージを彩る若尾文子の溌剌とした魅力に惹かれて借り、一人暮らしのアパートに帰るなりデッキに入れて、なんの気なしに再生した。
はたしてそれは、とてつもなくチャーミングな映画だった。開始早々ヒロインの出生の秘密が明かされ、彼女は海辺の田舎町から父のいる東京へ行くことになるが、着いた家で継母や腹違いのきょうだいに邪魔者扱いされ、女中部屋に押し込められてしまう。というストーリーからして、てっきりヒロインが陰湿ないじめにひたすら耐え忍ぶお涙頂戴ものかと思いきや、全然そうではない。青空娘はめそめそなんかしない。根っから明るく前向きな性格のおかげで、彼女は次々に問題を解決させ、行方知れずだった実の母とも感動的な再会を果たすのだ。
こう書いてみると、他愛のない話である。同じ若尾文子と増村保造監督のコンビ作でも、『妻は告白する』や『華岡青洲の妻』といった重いテーマの作品の方が、映画史に残っているし、よっぽど知られている。昭和三十年代版シンデレラといった趣きの『青空娘』は、女子供向けの軽い作品として、公開以降はあまり語られることもなかったようだ。二〇〇〇年に増村保造レトロスペクティブとしてリバイバル上映されたときのパンフレットが手元にあるけれど、谷崎潤一郎原作の『卍』や『刺青』にばかりページが割かれ、ここでも『青空娘』はほとんど俎上に載せられていない。
けれどそれも、原作者である源氏鶏太の、見事なスルーのされっぷりに比べれば、マシというものだろう。サラリーマン小説という、半沢直樹シリーズの池井戸潤にも連なるジャンルを開拓した存在で、『三等重役』をはじめ映画化された作品は数知れず。直木賞受賞どころか選考委員も務めた大ベストセラー作家でありながら、近年は著作がどれも絶版となり、完全に忘れられた作家になっていた。かく言うわたしも、『青空娘』をはじめ、『最高殊勲夫人』や『家庭の事情』といった古い(けれどいまの日本映画よりはるかに面白い)映画のオープニングクレジットで何度も出くわし、その名を知ったのだった。
源氏鶏太は明治四十五年、富山市生まれ。家庭は貧しく、高校を出ると大阪の住友合資会社で働きはじめる。終戦後、雑誌に小説を投稿するようになり、大衆小説の登竜門的な賞だった「サンデー毎日大衆文芸」に佳作入選、三十六歳で処女作を刊行している。デビュー以降はトントン拍子に流行作家になっていったようだ。ただ、高度経済成長時代のサラリーマンを描いてブレイクしただけに、自伝を読むと、自分の作品は後世には残らないであろうとこぼしていたりもする。たしかに時代の移り変わりは恐ろしく早い。源氏鶏太にかぎらず、大衆小説というジャンル自体が、いまや消滅している。そもそも「大衆」という言葉も、もうほとんど使われない。辞書によると、とくに労働者や農民、勤労階級を指す言葉らしいが、いまやネガティブな言い回しと受け取られてしまいそうな勢いだ。
けれどこの時代の「大衆」には、「俺たちみんな仲間さ」と肩を組んでハイキングしているような、朗らかでピースフルな空気がある。そして源氏鶏太の小説には端々にそんな時代の空気が染みわたって、著者本人が計算していなかったようなところにこそ、得難い魅力や新たな価値が宿っているのだ。
時代遅れが一周してクラシックに昇華し、このほど復刊された作品が『青空娘』というのは、とても興味深い。サラリーマン小説より先にこっちが来るとは! でも、それはすごく真っ当なチョイスである。だってこんなまっすぐな女の子、いまの時代、逆立ちしたって書けないのだから。まるで心を洗濯板でごしごし洗われたような読後感をお約束します。