「芸術家は多分、そうなろうと欲しないで,哲学者であります。」 クレー
描くことばかりか書くことにも長けた画家は,けっして少ないわけではない。過去にはレオナルド・ダ・ヴィンチという偉大な先達がいたし,20世紀にもカンディンスキーらの名前を挙げることができる。なかでもクレーは別格だろう。とりわけ絵画をめぐる思索の広がりと深さにおいて,本書『造形思考』は,レオナルドの数々の『手稿』に匹敵するといっても,おそらく誇張にはならないだろう。
ことによると,クレーはどこかでこのルネサンスの万能の天才のことをそれとなく意識していたのかもしれない。というのも,バウハウスでの講義に基づくこの『造形思考』には,美術にかかわるさまざまな問題はもちろんのこと,自然の観察や実験,博物学,光学,解剖学,人間観などにいたるまで,およそあらゆる分野における思索の軌跡が盛り込まれているからである。レオナルドにとってと同様,クレーにとっても,絵画とは,そうした旺盛な好奇心とたゆまぬ探求の成果が発揮される恰好の媒体だったのだ。クレーについて,その芸術は常に人間の生や運命についての示唆に富んでいると喝破したのは,最初の本格的なモノグラフ(1954年)を著わしたヴィル・グローマンだった。
それだけではない。音楽にも通じた画家という点でも,クレーとレオナルドはどこか共通するところがある。一方はヴァイオリン,他方はリュートと,得意の楽器に違いはあるものの,かつてレオナルドが,ミラノの宮廷に自分を売り込んだとき,リュートの名手であることを第一のセールスポイントに挙げたとすれば,若き日のクレーは,ヴァイオリニストになる夢を捨てきれないでいたのだった。それゆえ後年になっても,彼が,絵画を好んで音楽になぞらえて,色彩の「ハーモニー」や「ポリフォニー」,あるいは「フーガ」といった比喩をすすんで用いていたのも,おそらく偶然ではない(絵画と音楽については後ろでもういちど触れることになるだろう)。クレーがどれだけレオナルドを知っていたかは定かでない。とはいえ,もうひとりの第三者,すなわち,このスイスの画家が敬愛していた偉大な文学者にして自然学者ゲーテの存在をあいだに挟むなら,深い水脈でレオナルドにもつながっていくように思われる。
さて,前置きはこれくらいにしておこう。このたび装いも新たに復刊される運びとなった『造形思考』を改めて読み返してみて,まず最初に抱いたのが上記のような感想だった。この著作がいかにして成立したか,それについては編者ユルク・シュピラーの「まえがき」に詳述されているので,贅言を弄するまでもないだろう。
ここではむしろ,この本が,ドイツ語の初版から60年以上を経た今日もなおアクチュアルなものとして異彩を放ちつづけているのはなぜなのか,その理由に目を向けてみることにしよう。わたしの見方では,大きく捉えて二つの要因が考えられる。どちらとも,本書の全体を貫く根本理念にかかわっているものだ。すなわち,ひとつは「運動」や「生成」であり,もうひとつは「両極性」や「中間領域」である。以下で,それぞれについて若干のコメントを加えておきたい。まずは前者の方から。
クレーは本書でことあるごとに,肝心なのは「形態」それ自体ではなくて,「形成」や「造形」であることをくりかえし強調している。つまり,結果や解決としての「形態」ではなくて,発見やプロセス,生成や成長としての「形成」である。クレーが探求するのは,揺るぎないかたちの世界ではなくて,たえず発生し変化しているかたちの世界である。地下界から天空まで,宇宙の成り立ちもまた,すべてが生成変化する運動の流れのなかにおかれる。クレーにとって,形態とはそもそも運動にして行為にしてエネルギーなのだ。ちなみに,その『手稿』やデッサンが証言しているように,レオナルドもまた,運動し変容するものを言葉やイメージで捉えようとしたのだが,この点でもクレーとの接点が認められる。
その意味で典型的なのは,透視図法(パースペクティヴ)をめぐる一連の考察である。この講義は面白いことに,消失点に向かう「二本の鉄道線路を頭に思い浮かべよう」という意表を突く問いかけからはじまる(上252ページ)。なぜなら,列車が手前に向かってくるとしても,あるいは逆方向に走っていくとしても,「危なっかしい感じがする」。脱線するか消滅してしまいそうだからである。こうした軽い冗談から講義をスタートさせるところは,イロニーやペーソスとともにユーモアを絵画作品に込めようとするクレーならではのもの。いやしくも教鞭をとる者として,わたしたちも見習うべきことが多々ある。
突飛な連想かもしれないが,このたとえにはまた,映画の誕生を告げる1895年にリュミエール兄弟が発表した50秒の短編『ラ・シオタ駅への列車の到着』をどこか想起させるところがある。そのなかでは,やや右寄りに構えたカメラが,こちらに向かって走ってくる列車の様子をディープフォーカスで捉えていたのだった(それを見た観客たちが逃げ出したという伝説まで生まれた)。クレーがこの映像を見ていたかどうかは知らないが,当時の評判のことを考慮するなら,その可能性は否定できない。このことは講義を聴いていた学生たちにも当てはまるだろう。
いずれにしても,ここで重要なのは,透視図法を論じるにあたってクレーが,ほかでもなく運動から話をはじめている点である。透視図法といえば普通は,水平線上に固定された不動の視点――これが消失点に対応する――から出発するのが定石だが,クレーは逆に最初から動きを想定しているのである。案の定,この講義のテーマは,まさしく「移動する視点」へと進んでいき,「一点透視法から逸脱した,さまざまな状態における操作と投影の結合」について語られる。いわく,「軽い逸脱は,正常な構成方法のまわりを遊動する運動である。強い逸脱は,正常な構成方法にさからった運動である」(上279ページ),と。
一点消失による透視図法を「正当な構成法」と呼んで最初に理論化したのは,ルネサンスの万能人レオン・バッティスタ・アルベルティであった。さらに,このルネサンスの透視図法を「象徴形式」といいかえて現代に甦らせたのが,かの名高いパノフスキー。その著『〈象徴形式〉としての遠近法』がドイツ語で上梓されたのが1927年のことだから,くしくもクレーの講義とほぼ時代が重なることになる。興味深いのは,両者の対照性である。すなわち,イコノロジーの大家が不動の視点を大前提とするのにたいして,画家はのっけからそれを無視しているのだ。
ルネサンスの透視図法は,観察者としての主体(画家)の視点を固定したうえで,その視点から捉えられる安定した世界像を描きだすという意味で,デカルト的な主体―客体の構造を先取りしているともいわれる。これにたいして,クレーが思い描いているのは,動く画家の視線――もしくは身体――とともに変化してくるダイナミックな世界のイメージである。「『わたし』もまた本来は点である」(上330ページ)が,この中心点は上下,左右,前後にたえず動いているのだ。運動は,わたしたち自身のなかに前もってあるのであり,それに刺戟されて「わたしたちの内部には創造的な素質が形成される」(上296ページ)。それゆえクレーによれば,「デフォルマシオン」もまた「必然」のものとなる(上182ページ)。彼の絵にはしばしば,黒い矢印が暗号のように描かれていることがあるが,そこにはおそらく,こうした運動を鑑賞者に伝達しようとする意図があるのだろう。
この動きはまた,視点のみならず,身体そのものをも巻き込んでいる。そのことをはっきりと示しているのが,上113ページや147ページに添えられた図である。中心に位置しているのは「わたし」(あるいは「眼」)であるが,この「わたし」は,静止しているのでも閉ざされているのでもなく,主観と客観,内部と外部,地下界と天上界,カオスとコスモス,有限と無限,見えるものと見えないもの(熱や引力や衝動も含めて)のあいだのフレキシブルな閾(境界面)として機能する。画家はその閾を自由に跨いでいくことで,「客体としての物体と,主観的な空間の綜合」を実現しようとするのだ。
面白いことに,この中心にはまた「灰色」が位置している。クレーによると,「灰色は,生成と死滅にとっての運命的な点」(上58ページ)である。すなわち灰色は,創造と終末,はじまりと終わり,生と死をつかさどる色なのだ。この色は「次元を持たぬ点として,つまり多次元の間に位置する点として」,「わたし」と同じ中心の位置を占めている。「わたし」と「灰色」は,生成変化の起点であるという意味で一致している。
色環はひとつの回転運動のようなものとして捉えられ,その運動のなかでさまざまな色がさまざまな表情を帯びる。本書の終盤ではそうしたダイナミックな色彩観が豊富な挿絵とともに披露されているが,この円環の中心にあって,運動と変化を操っている隠れた主役こそ,それ自身はニュートラルな灰色なのである。それゆえ,白と黒のあいだの灰色であれ,補色同士の混合から生まれる灰色であれ,灰色には慎重でなければいけない。クレーの日記にはまた「灰色に注意!」と記されている。灰色は危険な色だ,しかし,それにもかかわらず/それゆえに魅力的な色でもある。
本書でクレーは,まず虹の色からその色彩論を立ち上げている(下242ページ以下)。つまり,円環ではなくて線上に並ぶ色から出発しているのだ(ニュートンのスペクトルのことが念頭にあったからだろう)。ところが,この色の線が,ある操作によって一挙に色の環へと転換する。その操作とは,要約すると次のようなものだ。
クレーにとって,ニュートン的な虹の色の理解は「不完全」なものである。なぜならそこでは,あくまでも「色列が有限なもの」として捉えられているからである。
というわけで,彼は新たな提案を引っ提げる。「問題は二つの1/2であり,この二つの1/2をひとつの全体とすることである。それは,二つの紫をひとつの紫とすること」(下245ページ)である。つまり,スペクトルの一方の端にある赤の外側に赤紫を,もう一方の端にある青の外側に青紫を加えると,これらはひとつの紫として結びついてきれいな円環を形成する,というのである。1と7とが一致するといいかえてもいい。クレー自身の表現では,「一本の紐はその神秘的な終りにおいて無限性(永久性)に結びあわされている」,ということになる。
この円環はまた,「スペクトル色円」とも呼びかえられる。かくして六つの色――赤,橙,黄,緑,青,紫――は,この円環のなかで無限の変化と運動を獲得する。運動には円周方向に従うものと,直径の方向(つまり補色)に従うものとの二種類がある。この円環全体の中心にあって,色の運動の鍵を握っている張本人こそ,灰色にほかならない。それゆえ,色の無限の運動を生かすも殺すも,この灰色にかかっているのだ。色環の中心に灰色を置くという発想は,さかのぼるなら,ドイツ・ロマン主義の画家フィリップ・オットー・ルンゲの「色彩球」にその直接のインスピレーション源があるといわれる。だが,ルンゲにあってこの灰色は,あくまでもニュートラルなものとして,たんに消極的な価値しか有していないように思われる。他方クレーの場合,灰色はまさしく「生成と死滅にとっての運命的な点」なのである。
さて,すべてが灰色から生まれ,灰色へと戻っていくとするなら,クレーのいう「生成」や「運動」には,空間の次元ばかりではなくて時間の次元もまた含まれることになるだろう。この点についてクレーは,空間芸術(視覚芸術)と時間芸術(言語芸術)とを峻別したレッシングの『ラオコーン』を引いて,「あれは結局は単なる学者の妄想にすぎない。なぜなら,空間もまた,時間の概念に帰せられるからだ」とさえ述べている(上166ページ)。クレーの絵のなかによく出てくる原初的で空想的な微生物,鉱物や植物のようなモチーフは,この画家の博物誌的な関心を物語ると同時に,カオスからコスモスへの「生成」の時間性を証言するものでもあるだろう。
さらに,クレーが好んで絵画を音楽になぞらえたことは,先述したとおりである。彼にとって音楽は,まさしく空間と時間とが分かちがたく結びついた芸術であった。そのことはまた,この画家がとりわけ,独立した複数の声部からなるポリフォニーや,遁走曲とか追復曲とかと訳されるフーガを好み,それらをタイトルに掲げた絵画作品を残していることからも例証される。同じ時代,多くの前衛的な画家たちにとって,音楽は新しい純粋な絵画のあり方にとって,理想的なモデルを提供するものであった。というのも,音楽において,素材と形式,目的と手段は同じひとつのものとみなされたからである。カンディンスキーやドローネー夫妻,フランシス・ピカビアやフランティセック・クプカらが,それぞれのやり方で音楽的な絵画を模索していたが,その量と質において,クレーは抜きんでている。その根底には,幼いころから培ってきた音楽への変わらぬ情熱があったにちがいない。
わたしたちの画家は,このように,同時代の前衛画家たちとはどこか一線を画しているように思われる。このことは,彼が,当時次々と誕生していた新しい芸術のいかなるムーヴメントにも直接合流することはなかった,という事実にもよくあらわれている。しかもクレーは,カンディンスキーやモンドリアンのような純粋な抽象絵画に突き進むこともなかった。彼の作品の多くは,具象と抽象の「中間領域」にあって,その豊かな可能性を汲みつくそうとしているようにみえる。あるいは,具象と抽象という「両極性」の緊張関係のなかで絵を描いている,といいかえてもいいだろう。「内的省察」の起点にはつねに「外的観察」があるのだ。いわく,「自然を直観し,観察することに長じて,世界観にまで上昇すればするほど,抽象的な形成物を自由に造形できる」,と(上146-7ページ)。
それゆえ,クレーの絵のなかにはたいてい具体的な事物を想起させる線や色面が残されることになる。そのヴァリエーションたるや無限である。このことは,「芸術は,見えるものを再現するのではなくて,見えるようにするのだ」という名高いモットーにも象徴的に示されている。ちなみに,「目に見えるものほど抽象的なものはない」と語ったのは,やはりいかなる流派にも属さなかったジョルジョ・モランディだが,二人のあいだにはどこか共通するところがあるように,わたしには思われる。モランディもまた,お気に入りの瓶や壺の観察から出発しながら,それを純粋な造形的手段へと昇華させることによって,無限のヴァリエーションを生みだしていったのだった。
若き日のイタリア旅行(1901-02年)でクレーは,「建築的な絵画」と「詩的な絵画」とを融合させることこそが自分の芸術の目指すものだと悟る(『クレーの日記』)。前者には造形的なもろもろの法則が,後者にはそこから直感的に逸脱していく自由が,緩やかに対応していると考えられる。早くからクレーは,どちらか一方の極に傾くのではなくて,対立しあう二つの極のあいだで,思考と創作を重ねてきたのだ。
「線を散歩に連れていく」,これもまた,表情豊かな線描に特徴のあるこの画家の名言である。あらかじめ道筋を決めて散歩に出るとしても,途中で何が起こるかわからないから,臨機応変に対処しなければならない。しかも,主体は「わたし」であるというよりも,(この場合は)「線」の方である。なぜなら,「わたし」はむしろ「線」に導かれるようにして,「線」の赴くままに身を任せるからだ。ただし,犬の散歩とちがうのは,「わたし」の手が「線」を引いているのだから,「線」もまた「わたし」だという点である。
スペインの離散ユダヤ人(セファルディム)たちのあいだには,「わたしを散歩に連れていく(パセアルセ)」という語があったという。この語を起点に,能動態とも受動態とも区別され,行為者と受動者とが重なりあう中動態について思考を深めたのは,哲学者のスピノザであった。中動態において,能動と受動,主語と目的語のあいだにはっきりした境界は存在しない。もちろん,クレーがスピノザを踏まえていたとは考えられないが,「アクティヴ」と「パッシヴ」のあいだに「中間的な性格」を設定しているところをみると(上230ページ),画家は直感的に中動態的なものに思い至っていたのではないかと想像される。「線を散歩に連れていく」とはまさに言い得て妙だ。ここでもクレーは,能動と受動,主体と客体という両極性の「中間領域」で独自の思索を巡らせているのである。
クレーとほぼ同じころ,やはり「両極性」において造形的イメージの特質を解明しようとしていた偉大な美術史家がいた。アビ・ヴァールブルクである。その「両極性」は,理性と情念,論理と魔術,異教とキリスト教,歴史学と人類学など,研究の対象(美術作品)から方法論にわたるまで,さまざまなレヴェルに及ぶ。それゆえ今日,歴史人類学とかイメージ人類学と呼ばれている方法論がヴァールブルクにひとつの起源をもつことは,たんなる偶然ではない。しかも,この美術史家にとって「両極性」のあいだの揺れは,イメージの特性ばかりではなくて,生のスタイルにもかかわるものであったのだが,このことはまたクレーにも当てはまるだろう。
よく知られているように,天上と地上の「中間領域」を自在に飛び回っている天使たちのイメージは,私たちの画家を生涯とらえてやまないものだった。とりわけ死を悟った晩年,クレーはまるでみずからを重ねるかのようにして,多くの天使のデッサンや絵を残している。その数はゆうに60点を超える。まさしく「線を散歩に連れて行った」成果が,これらの天使たちなのである。
最後に,小論の出発点に帰って,以下のことを付け加えておきたい。「中間領域」におけるダイナミックな「生成」に思考と創造の照準を定めてきたクレーが,今日なおも大きなアクチュアリティをもっているとすれば,それは,この画家が美術のみならず,音楽――ピエール・ブーレーズやアルバン・ベルクなど――,さらには哲学――ベンヤミン,ハイデガー,メルロ=ポンティ,ドゥルーズなど――にもまた甚大な影響を与えてきたことによって証明されているのである。