携帯電話は持たず、切符を節約して自転車を漕ぎ、本は棚におさまるだけにとどめ、シャツは夏にも長袖しか着ない。余った毛糸でたわしを編んで、お昼ごはんは常備菜でちゃっちゃとすます。よほどきっちりした倹約家なのかと思うと、住む部屋をふたっつ借りて、上京してきた若者に寝泊まりをすすめ、古本市で本を売ったお金で旅をする。私の知っている荻原魚雷さんの暮らしぶりはそういうかんじ。ちょっと昔のひとみたい。それに声がとても小さい。
ある会合の帰り道、魚雷さんと何人かでカラオケボックスへ行ったことがある。私は歌に自信がなくて「うたわなくてすみますように」と気弱に屈んでついていった。個室に入ると、あやしい光によって色水の中で溺れる魚になったような気分で、ますます気弱に圧し潰された。カラオケは、音楽をなぞるだけでするすると歌い終わってしまうところが、苦手なんですよぇ。
しかしこの夜、私は魚雷さんのうたう『赤色エレジー』を聴いて、これだと思って開眼したのである。先述のとおり、魚雷さんは声の大きなひとではないが、胆力がこもっている。哀しさが抑えきれないような涙声が、裏っ返しになってよれる。あぶなっかしさで全員の腰を抜かさせた、たいへんな破壊力をもった歌声だった。本物のおとこ一郎が四畳半の部屋で、西日を背にしてうたっているかのようだった。音楽に合わせるのではなくて、内から絞り出す、魂の叫びのような気がした。もらい泣きする私、笑うひとたち。喝采を浴び、うたい終えると、魚雷さんはいつもの静かなひとに戻って、クククと笑った。
うたわされるのではなく、うたうのよ。魂の叫びに目覚めた私は、『ウェディング・ベル』を情感を込めてどんどんうたった。みなに笑われれば、らくになった。
『本と怠け者』のなかで、魚雷さんは大岡昇平の『中原中也』から言葉をひいている。
《生涯を自分自身であるという一事に賭けてしまった人の姿がここにある》
十九歳の時この言葉に出会った魚雷さんは、自分もそうでありたいと誓う。文筆の仕事に就いたのち、同じ本を再読し、小林秀雄の「芸術のために生きるのだといふ事は、山椒魚のキン玉の研究に一生を献げる学者と、何んの異なる処があるのか。人生に於いて自分の生命を投げ出して賭をする点で同じぢやないか」という言葉にふれる。心をゆさぶられ、「自分の書いている文章も山椒魚のキン玉みたいなもの、いえいえ、それ以下だ」と客観視することによって、「わたしはものすごく気持が楽になった」と書く。
その心境は、芸術的な活動を、身の丈を超えるような大きく尊いものだとする世の中の規定からのがれて、己の自由を得たということだったのだろうと思う。
怠け者、という言葉をみずから掲げるというのは、世間さまに白旗を振ることに等しい、と思う。小林秀雄の山椒魚のキン玉説もそれに近しい。でも自分を怠け者と名づけた途端“弱さ”はくるっと裏返る。「小心者かつ童顔で虚弱なわたし」という魚雷さんだけど、このひとにはかなわないと、すがすがしく諦めさせる強さ。あの夜の『赤色エレジー』には、魚雷さんが十九の時に誓った姿勢が貫かれていると思う。
『本と怠け者』に挙がる作家たちは、ちょっと困ったかんじのひとが多い。魚雷さんの目は、彼らの書くものを通して、その姿勢に向けられる。クヨクヨとしつこく悩み、自分を嫌悪し、時代錯誤。ひとつのことにこだわりつづけているが、そのことすらちょっとダメだなって思われてしまうひと。その境遇をどんなふうに持ちこたえているかを魚雷さんは読みこみ、「休まないで歩き続けること」への力へと昇華させる。
転倒寸前のところで踏ん張っているひとたちを、あまり簡単に否定してほしくないと魚雷さんは書いていますが、いえいえ、むしろ態勢を保ってとどまりつづけるひとのほうが、強靭で、かないませんよと、すぐにへこたれる私なんかは思うのだ。よれよれであっても、喝采を浴びる歌声のように。