ちくま学芸文庫

『ディスコルシ』、市民的共生のための備忘録
ニッコロ・マキァヴェッリ著『ディスコルシ ─「ローマ史」論』

 ヘリコプター・ベンこと米国連邦準備制度理事会(FRB)のバーナンキ議長がドル札を刷りまくれば、なぜか世界は円高に振れ、日本のものづくり企業の海外転出が続く。沖縄の米軍普天間基地移設がつまずくや、竹島はおろか尖閣諸島、北方領土に石油利権と資源獲得を求めて大国の食指が伸びてくる。一昨年あの暑い夏の総選挙で政権交代を果たした民主党は何やら内部分裂の様相、今の若者の多くには定職がない、教育もあやしい、国内人口は歪な逆ピラミッド構成のままとすると、さて日本はどうなるのか、将来も自由で平和で存在感のある国となるにはどうしたものか。
 一六世紀初頭、ルネサンス人ニッコロ・マキァヴェッリ(一四六九~一五二七)も祖国を憂い、その将来を大いに案じていた。覚めた知性と志士の熱情を併せ持つ彼は、メディチ家復帰後フィレンツェ共和国政府書記官の仕事を剥奪され、一発逆転のつもりで『君主論』を一気呵成に書き上げるのだが読んではもらえなかった。ちなみに生前世に出た著作は晩年の「戦争論」のみである。とはいえ失職後も「不断の読書」と「現場経験」の突き合わせに余念はない。なぜなら政治の模範は古代ローマの歴史にあり、なかでも共和政ローマに最上のモデルを見定め、彼の思想には益々筋金が入るからだ。つまりかつて地上に現出した市民的共生は頭を使えば当時においても再現可能だ、と。彼はルチェッライ家主宰のオリチェラーリ園の読書会に赴き、貴族の若き子弟たちと語り合い、自由な暮らしを守るための考察をまとめ上げていく。これがもう一つの代表作『ディスコルシ』であって、次世代市民への備忘録と言ってもよいだろう。
 原題は『ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考』とある。「ディスコルシ」はイタリア音で、フランス語なら「ディスクール」だから、「談話」なのである。古代ローマの歴史家リウィウス(BC五九頃~一七)が残した一四二巻に及ぶ『ローマ建国以来の歴史』のうち、十巻分についてのマキァヴェッリ自身の注釈がその原形となっている。何か意図があるのだろうか、長短あわせて一四二の章から成り立つ。三巻仕立てながら系統性に乏しく、ただ所々に同時代のフィレンツェ政府の失策や人民の腐敗ぶりを織り込むことは忘れていない。
 第一巻は都市ローマの起源と内政問題にはじまり、第二巻では外交と軍事の話題が多い。第三巻は個々の執政官、護民官、軍人等の行動に焦点をあて、共和政体を草創期の本来の姿に取り戻す観点からその顛末が綴られる。トピックスは自由かつ豊富で、正義の由来、宗教の役割、諸法令と実際の市民生活との関係、自由の擁護、同盟のあり方、運命・忘恩・嫉妬・陰謀についてなど、そこには人間の政治行為に通底する普遍的法則というか、人間にできることとできないことを仕分けする知の努力がうかがえる。
 マキァヴェッリの慧眼として有名なのは、共和政初期の貴族の横暴から平和を守る護民官制度の創設に、その後のローマ発展の原動力を見て取るところだ(第一巻四~六章)。いわば「不和を契機とする制度」のおかげで内戦と流血からローマは脱却できたのだとしている。当時でさえ幸運と軍事力、これが古代ローマ存続発展の理由とされていたところへ、マキァヴェッリは貴族対平民の騒乱こそがよき法律とよき教育、そして護民官制度に守られた自由な暮らしに繋がったのだ、と自説を展開する。この指摘は二世紀を経たフランス革命後の三権分立の先取りとされ、今では自由主義国家の大前提となっている。
『ディスコルシ』はまた、われわれ現代人の卑近な迷いに応えてくれるのでおもしろい。部下に接するに、秋霜烈日のマンリウスかそれとも温情主義のワレリウスか(第三巻二二章)、マキァヴェッリの軍配やいかに。両者とも執政官であり軍隊をも率いたが、これは教育に携わる者としては興味深いところである。要はスタイルより、伝え守るものを持っているかどうかということなのであろう。
 さまざまな情報が飛び交う現代にあっても、見えるものと見えざる意図を繋ぐ歴史的想像力は忘れたくはないものだ。揺れる日本であるからこそ、達意の永井三明訳でそのあたりを識別できればと思う。

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