ちくまプリマー新書

俳句で歴史を学ぶこと
半藤一利『歴史に「何を」学ぶのか』

8月刊行のちくまプリマー新書『歴史に「何を」学ぶのか』について著者・半藤一利さんが書かれた解説をPR誌『ちくま』9月号より転載します。

 先日、ある俳句雑誌でこんな句を見つけて、ウムと思わず唸りました。
  八月や六日九日十五日
 作者名も書いてありましたが、あえて書きません。なぜならこの話を友人の俳人にしたら、「その句は八月やを、八月の、八月に、などと変えていろいろな人に詠まれていて、俳句の世界では有名なんだよ」と教えられたからです。いちばん最初につくった人は不明なんだそうで、作者未詳ということになっているそうです。いずれにしても、六日のヒロシマ、九日のナガサキとソ連の満洲侵攻、十五日の天皇放送と、七十二年前の日本敗戦のあのくそ暑かった夏を体験した高齢者が作者であるに違いありません。
 歴史に「何を」学ぶか、といっても、学ぶという語から堅苦しい講義なんかを予想する必要は少しもありません。俳句を楽しんでつくり、そして人の俳句を楽しんで読みながら、フッと歴史に思いを馳せて何かを学ぶことはできるのです。
 平成二十一年(二〇〇九)十一月に亡くなった俳人川崎展宏(てんこう)さんの句に、「戦艦大和(忌日・四月七日)一句」と前書きのある、これまた句界ではよく知られた代表作があります。
  「大和」よりヨモツヒラサカスミレサク
 ヨモツとは黄泉(よみじ)、あの世です。ヒラサカは平坂と書き、あの世とこの世の境にある坂のこと。『古事記』に、イザナギの命(みこと)が亡くなった妻のイザナミの命を探しにこの坂を越えたことが書かれています。この句から古典のことを自然に学ぶことができ、さらに「大和」を調べてみれば太平洋戦争のこともちょっと知ることができるのです。
 戦艦大和は昭和二十年(一九四五)四月七日、九州坊ノ岬沖で撃沈されました。戦死者は三千五十六人。そのうちのだれかがあの世へゆく途中の坂道の草叢(くさむら)にひっそりと咲く菫(すみれ)の花を認めたのです。句はそのことを知らせる無線電信。作者の川崎氏はこのとき十八歳。大和乗組みの自分と同じ年頃の通信兵が「ト・ツー・ト・ツー」と打ったのであろうモールス信号を、テレパシーで感じとり書きとめたのです。いい句であり、心から死者を悼む句であると思います。
 大和を中心とする十隻の残存艦隊が、征きて還らぬ死出の特攻で沖縄に向かって、豊後水道から太平洋にでるとき、九州路は桜が満開であったといいます。これが日本本土の見納めと、将兵の胸には爛漫たる花の色がしみたでしょうが、個人の力では如何ともしがたい戦争の、非情そして不条理を訴えるには、桜よりも小さな菫こそがふさわしいということなのか。句の菫はほんとうに美しいと思います。
 そういえば、この年の四月一日の米軍上陸にはじまった沖縄攻防の戦いでは、もう一句、わたくしには忘れられない句があります。これも多くの人が引用したりするいい句です。
  散る桜残る桜も散る桜
 海軍が「神風」二千六百三十二人、陸軍が「振武」千九百八十三人、まことに多くの若ものが、特別攻撃隊として地を蹴って飛び立ち、ふたたび還ってきませんでした。そのなかのだれか隊員の一人が詠んだ句であることは間違いないと思うのですが、以前にははっきりしていませんでした。歴史探偵を名乗るわたくしはかなり苦労して作者を探して、やっと見つけだしましたが、結果としてはそれも歴史を学ぶことにもなったのです。航空特攻ではなく、グライダーで米軍占領下の嘉手納飛行場に強行着陸して日本刀や銃剣で斬り込み、全員が戦死した義烈空挺隊の隊長奥山道郎大尉が、弟さんあての遺書にひっそりと書かれていたものでした。もっとも、この句は良寛の辞世句であるとの説が一般的になりました。が、実はそうではなく、作者未詳の古句であるとの説がいまは強いようです。あるいは奥山大尉がそれを思い出して、遺書に書いたもの、とすべきなのかもしれませんが。
 こんな風に、歴史には、どんな分野であろうと、とにかくいくつもの真実が隠されています。その真実を見つけだすことは、結構面白い仕事だしとりも直さず人間というものを知ることに通じます。年号など暗記する必要はないのです。語弊のあるいい方になりますが、文学を楽しむように歴史に親しんでもらいたいと思います。とくに若い人に。
(追記=俳人谷村鯛夢さんの書いたもので教えられました。冒頭の「八月や……」の句を最初に詠んだ人は、海軍兵学校75期の生き残りでいまは亡き諫見勝則氏で、句は平成四年に詠まれたものという。わたくしは自身でまだ残念ながら確かめておりませんが……)

 

※WEB掲載にあたり一部訂正いたしました。

 

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