一九六〇年、大学受験のため大阪に向かい、そのまま居ついて二三年間、関西方面を移動した。とにかく生家・生業から抜け出したかった。なぜ大阪か、に確とした理由はない。ただ一七歳の少年が開高健の「日本三文オペラ」(『文學界』)に触れたことが、東京や京都ではない、大阪だ、のわずかな決め手になったことは確かだった。ところが着いて住んでみた大阪は暗く殺伐とした街で、意想外であった。開高もすでに大阪を捨てていたことを知って、なにか裏切られた感じをかなり長く引きずっていた。
しかし『輝ける闇』(68年)、『人とこの世界』(70年)、『夏の闇』(72年)、『紙の中の戦争』(72年)が出た。私には続いて一気に出てきたという感じがした。連載だったので活字になったのは『人とこの世界』が最初である。数ある開高作品のなかでも名品中の名品といわれるこの二つの小説と二つの評論は表裏一体のものであるということにすぐに気づかされた。開高の影響が決定的になった瞬間である。
この四作のメインテーマは「戦争のあとではきっと技術文明が〝進歩〟し、同時にすぐれた文学作品が生まれる。大量殺戮のあったあとに人はかけつけて、『戦争と平和』を生み、『武器よ、さらば』を生み、『野火』を生み、前時代の文学の領域をはるかに深め、開拓し、広げる。この点で作家は……屍肉を食って肥るハイエナであるといわれてもいたしかたない。……一瞬の偶然で死体となったかもしれない人が帰ってきて異様な花々を咲かせるのだ。」である。
これは『人とこの世界』で大岡昇平を扱った章に出てくる言葉だが、(対ナポレオン戦争が)『戦争と平和』を生み、(欧州大戦が)『武器よ、さらば』を生み、(大東亜戦争が)『野火』を生み、に「(ヴェトナム戦争が)『輝ける闇』を生み、」と続けることもできるし、全文、「作家」開高自身が小説にかける「抱負や覚悟」を述べたものと受け取ることもできる。事実『輝ける闇』や『夏の闇』などの作品が生まれなければ、早晩、世界史からヴェトナム戦争が年号と抽象記述を残して消え去ってしまうといっても過言ではない、というのが私見だ。
といっても本書は一一人の作家と一人の画家との対談をネタにした人物スケッチであり、作品論である。すべて開高好みの人たちが登場する。実際の対談時間はどれもずいぶん長そうだが、本文のなかではエピソード類の取り扱いなのだ。全文、開高の創作と思えるほどに、開高調で充満しきっている。
本書に触発されて、広津和郎、きだみのる、大岡昇平、武田泰淳、金子光晴、今西錦司、深沢七郎、島尾敏雄、井伏鱒二、石川淳、田村隆一を読んでみた。しかし、金子、今西、田村を除いて、開高が驚愕し頭を垂れるほどには、驚かないし、感心もしなかったのであった。もっとも広津の『松川裁判』は「裁判は向こうの非を鳴らすために書いたけど」という作者の言葉に納得する形で感心して熱心に読んだ。
なぜ広津や武田や石川に深い思いを寄せることができないのか。開高は一方では文明の高度化に「病」を見て、病の進行を防ぐために、欲望にブレーキを掛けるべきだと警鐘を鳴らす。他方、人間はどんな素晴らしい状態に達しても、そこに満足できない過剰な欲望存在であると認識せざるをえない。金子、今西、田村は後者を人間の必然として肯定する。開高の小説、評論、エッセイの面白さというか、広く深くとらえどころのない豊饒さは、文明の病を人間の固有性(過剰な欲望主体)として肯定するところにある。『輝ける闇』も『夏の闇』もこのやみがたい豊饒さを語っている。
『人とこの世界』を初読のとき、文明批評家とは一段違うところにたった開高の相貌を垣間見たような気がした。だが同時に出た『輝ける闇』があまりにも見事に成功したため、この評論集がもっている新しい固有の意義をきちっと嗅ぎ取り、定着することができなかった。
今回、再読の機会を得て、あらためてこの意義を強く再確認することができた。