記憶力の減退を感じる今日このごろ、メモ帳やレコーダーを使わずに取材することがむずかしくなってきた。三十代のうちは、忘れるぐらいだからたいして重要な話ではなかったのだとあきらめもついたが、最近は忘れてはいけないことまで忘れるのでそうもいかない。自分の記憶すら心許ないのに、よくも人の記憶をたどるインタビューを生業にできるものだと思う。
忘れるだけならまだいいが、困ったことに記憶はねじれる。意図せずとも曲がってしまう。赤ちゃん研究を起点に、人間の自由意思の意味を問い続ける認知科学者の下條信輔氏は、近著『サブリミナル・インパクト』で、発明や発見をした人の回顧の「因果関係を丸ごと信用するわけにはいかない」と書いた。「人は自分の経験や行為の本当の原因を案外知らず、原因を誤って帰属する(実際とは違うことを原因と思い込んでしまう)」ともある。読まなかったことにしたいが、そうはいかない。
下條氏の本は、生まれて間もない乳児がすでに物を選ぶこと(選好注視)などに着目した第一作(『まなざしの誕生』)から読んできたが、人の話を聞く仕事をしている人間にこれほど恐ろしい著作群はない。取材者が陥りがちな、ストーリーに沿ったインタビューの危うさに気づかせてくれるからだ。
インタビュアーは、なぜと問う。なぜ、あなたはそう思ったのですか。なぜ、あなたはそこへ行ったのですか。なぜ、なぜと問いを重ねていく。警察の尋問じゃあるまいにと思うが、それが取材の基本である。だが返ってくる答えは、相手に悪意がなくても歪んでいる可能性がある。前後が入れ替わっていたり、いるはずの人物が登場しなかったりするなど日常茶飯事だ。それが人間の認知なのだからやむをえない。だからこそ、客観的な事実を積み重ねて外堀を埋めていくしかないのである。
記憶のあいまいさを日々痛感している私であるが、そうはいっても忘れられない取材中の言葉はいくつもある。そのうちの一つが、拙著『絶対音感』の取材でお目にかかった小児科医、榊原洋一氏の言葉だ。画用紙に描かれた点の数を幼児に瞬時に答えさせるような早期教育についてご意見をうかがったところ、榊原氏はこういった。「この先、さまざまな人と関係をもって社会的に成長していかねばならないのですから、点の数を数えることぐらい脳には簡単なことですよ」
脳の潜在能力は点を瞬時に数えるようなレベルのものではない。社会性を身につけることが人間にとってどれほど負担の大きい営みであるかについて気づかせてくれた一言だった。
絶対音感は幼いころにしか身につきにくいといわれるだけに、驚くべき才能だと思っている人が当時はまだ多かった。詳細は拙著に譲るが、一定の環境さえ整えば、獲得することは脳にとってさほどむずかしいことではないのである。
『ヒトの発達とは何か』は、榊原氏を取材するきっかけとなった著作で、久しぶりに書棚から取り出してみると、あちこち傍線だらけである。発達神経学の知見をふまえた乳幼児の成長の過程は、驚きの連続だった。科学的根拠のない過度の早期英才教育への警告でもあった。たとえば、言葉を話さない乳児でも全感覚を研ぎ澄ませて周囲を探り、耳をそばだてていること。一歳ころになると、親のしゃべる言語で意味のある内容を話すようになるが、ただ真似しているだけなら「マンマ」や「ワンワン」ではなく、自動車のエンジン音やドアの閉まる音から先にしゃべってもいいはず。そうではないのは、乳児の段階ですでに「意味のない雑音とメッセージを含むヒトの声を聞き分ける能力をもっているからだ」という一節には、目から何枚もうろこがこぼれ落ちた気がした。絶対音感も、たんに音を聞かされ続けたから身につけるのではない。音を聞いたり奏でたりすることが母親を喜ばせ、それが自分にとっても心地よく意味のあることだからこそ、子どもは嬉々として覚えるのである。
人間は本来、人や社会と関係をもち、相対的に成長していくもの。乳幼児の脳に刻み込むものに親や社会が責任をもつのは当然である。赤ちゃんからのメッセージは偉大だった。