「維新」への国民感情を見事に分析/佐藤卓己
日中戦争勃発の前夜、一九三六年の新聞をめくってみればよい。農村の病弊、政党の腐敗、外交の破綻を伝える記事が溢れている。当時の社会状況を想いながら、次の文章を声に出して読んでみたい。二・二六事件の蹶起趣意書である。
「頃来遂に不逞凶悪の徒簇出して私心我慾を恣にし至尊絶対の尊厳を藐視し僭上之れ働き万民の生成化育を阻碍して塗炭の痛苦を呻吟せしめ随つて外侮外患日を逐うて激化す。所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊の元兇なり。(中略)君側の奸臣軍賊を斬除して彼の中枢を粉砕するは我等の任として能くなすべし。」
五・一五事件の叛乱将校・三上卓が作った「青年日本の歌(昭和維新の歌)」が耳元で聞こえてくるような気がする。「人生意気に感じては 成否を誰かあげつらふ」、と。この歌は動画サイトYouTubeに多く投稿されているが、その映像は本書で言及される「二・二六映画」である。
私自身、頭では問題の単純化を否定するわけだが、元兇を一刀両断する革新イメージに心惹かれるものがないとは言えない。本書はそういった「維新」「革新」の国民感情(世論)を「二・二六映画」の変遷から見事に分析している。これまで「戦争」のポピュラー文化を中心に分析を重ねてきた著者だが、今回は「ファシズム」の魅力にメディア論のメスを入れている。
まず秀逸なのは、「二・二六映画」に登場する青年将校の「純粋さ」を政治的(公的)「情熱」と家族的(私的)「情愛」に区分して論じたことだろう。前者の「純粋さ」は視野狭窄、浅慮短見と批判されることも多く、後者こそ大衆を物語に感情移入させる前提となる。「情熱」と「情愛」の描き方によって、主人公のモデルも違ってくる。最初の「二・二六映画」『叛乱』(新東宝・一九五四年)から「部下思いの人徳者」安藤輝三は前景化していたが、安藤の私生活が描かれるのは『銃殺』(東映・一九六四年)からである。だが、こうした初期作品は戦後政治の混乱もあって、知的世界では「キワモノ」として批判、あるいは黙殺されることが多かった。
転機は一九六〇年代後半の学園紛争である。政治的情熱劇のヒーローとして「急進的反逆者」磯部浅一が「発見」される。三島由紀夫の自作自演『憂国』(ATG・一九六六年)、鶴田浩二が磯部を演じた『日本暗殺秘録』(東映・一九六九年)はその典型例である。特に、後者のシナリオには磯部の獄中日記にある天皇批判、「天皇陛下、なんというご失政でありますか。何というザマです」もあった。最終的にはカットされたが、その「反逆のパトス」は全共闘学生が好んだ任侠映画とも通底していたという。政治の季節が終わると、『動乱』(東映・一九八〇年)のように安藤(情愛)と磯部(情念)の統合が模索され、やがて『226』(松竹・一九八九年)では蹶起趣意書の「筆頭」署名者・野中四郎が新たに浮上する。いみじくも一九八九年は「昭和の終焉」であり、『226』は「パワーダウンした現代」への挑戦状として企画された映画である。確かに平成になると「純粋さ」や「情熱」を口にすることは気恥ずかしくなった。
ところで、評者はいま「NHK“青年の主張”全国コンクール」という昭和の国民的番組を調べている。同番組も一九八九年で終わり、翌年から「青春メッセージ」となっている。その「青春」も色褪せたのか、後継番組の視聴率も凋落し、二〇〇四年に打ち切られた。「青年」が「若者」と置き換えられた時代に、「青年」将校を主人公とする「青春映画」に感情移入することはそもそも難しかったのではなかろうか。大々的な宣伝で封切りされた『226』を私も観はしたものの記憶にない。むしろ単館上映だった「二・二六映画」、須藤久監督『斬殺せよ 切なきもの、それは愛』(一九九〇年)の印象が鮮烈なのだ。本書を読んで、みょうに納得している。