遠い地平、低い視点

【第42回】さまよえる男達

PR誌「ちくま」12月号より橋本治さんの連載を掲載します。

 最近、「小太りの若中年」のような男達を見て、「この人達、結構やばくないかな」と思う。もう「若者」ではない。しかし「中年」と言われることは拒絶するような年頃の男で、未婚と既婚とを問わず、へんに幼児性が強い。一応「社会のルールを守る」ということは知っているから、知らずに割り込みなんかをしてしまったのを注意されると、素直に謝るけれど、礼儀を教えられただけの子供のように、うるさく言う人がいなくなると、傍若無人的なだらしなさを露呈してしまう。ジャンクフードかどうかは知らないが、食うこと、あるいは飲むことにそれほど不自由はしていないから、小太りになってしまう。「自分のあり方は肯定されている」と思っているからだろう、傍若無人の気が全身から漂う。
 男性原理主義社会で、男のわがままは野放し状態のようになっているから、年を取って定年過ぎで働かなくなった後でも、共に暮らす妻から「どうしてあなたはそう横柄なの」と言われてしまう――そこら辺は似ているけれども、「小太りの若中年」は、「男であることの特権性に寄っかかっている」というよりは、「幼児的なまま」でいる。
 こういうことを言ってもあまり男にはピンと来ないのだろうけれども、「成長して社会を担う一員になる」という方向性がなくなってしまうと、「ルールだけを知っている子供」のように、「俺は俺なんだからいいじゃないか」という状態になってしまう。でも、実際は「いい図体をした子供」のようなもので、「子供であることの先」がないのは、かなりやばいことのように思う。
 何年か前、大阪の「名門」と言われる小学校に男が侵入して何人もの子供や教師を殺傷した事件があった。そこまで行かなくても、通学途中の小学生の列に「うるさい!」と言って石を投げたり、「殺す」と脅したりする人間がいる。みんな男だ。私には、「自分はもう幸福な小学生ではない、でも自分の外側には幸福な小学生達がいるから、憎くてしょうがない」という、へんな嫉妬の心理が働いているような気がしてしまう。もう「大人」なのに。
 この間、高速道路でいやがらせの煽り運転をして他人の車を停めさせ、その末にトラックの追突を招いて二人の子供を持つ両親を死に至らしめた「事故」というか「事件」があった。この件で逮捕された男は、「小太りの若中年」系のボーッとした表情の男だった。その彼は日頃から、走行中の他人の車に近寄って煽り運転を繰り返していたんだという。このことをきっかけにして「ロードレイジ」という言葉がパッと広まったけれど、そういう「高級なもの」なんだろうか? 私には、友達のいない小学生が、同じ年頃の仲のいい子供達を見つけると近づいて行って、「よう、よう」と難癖をつけたり、軽い暴力行為に及んでしまうのと同じように思われる。「なァ、なんで友達になってくんねェんだよ」と言って知らない相手にぶつかって行く子供は、その昔にいくらでもいたけれど、いつの間にか彼等の前から、「成長して大人になって行くルート」はなくなっていたのかもしれない。
 男と女が二人乗りで、夜の道をバイクで走っているのを見た男が、運転する車でつけ回し、煽り運転で転倒事故を起こさせた事件などは、それを仕掛けた男の中に棲む「不幸」が、あまりに見え透いている。
 車を運転すると人格が変わることがあるというのは、子供の時から知っている。ディズニーの短篇アニメでそういうのがあった。いつもはノンキで温厚なはずのグーフィーが、車に乗ってハンドルを握ると、突然目を血走らせて魔王のようになってしまう。でも、車から下りるとまたノンキなグーフィーで、乗るとまた悪魔になる。
 車というモビルスーツをつけて、尊大になっている人間はいくらでもいる。特に「高級車」では。歩いていてもそれは分かる。「こっちは道を空けてやってるんだぜ。それなのになんだ、そのえらそうな顔は」と言いたくなる人間は、いくらでもいる。でも、誰もが車を運転して「戦闘機乗り」のような精神状態になるわけじゃない。そうなってしまうベースがあってのことだろう。 
「幼児性がある」というのは、別に悪いことではない。誰の中にもそれはある。それを弾圧してしまうと、人間は錆びついてしまう。でも、幼児性は誰の中にもあるもので、成長した人間は、自分の幼児性を守るために、そして暴走させないために、幼児性を覆うカバーを持っている。そう進むのが「成長の方向性」というもので、日本人はそれをいつの間にかなくしたらしい。
「大人にならなくていい。大人にならずにいれば、消費経済を支えるいい消費者になれる」でいいのね?

PR誌「ちくま」12月号
 
この連載をまとめた『思いつきで世界は進む ――「遠い地平、低い視点」で考えた50のこと』(ちくま新書)を2019年2月7日に刊行致します。

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