遠い地平、低い視点

【第38回】道徳教育は必要なのかもしれないなァ

PR誌「ちくま」8月号より橋本治さんの連載を掲載します。

 道徳教育というのが嫌いだった。その根っこにあるのは「忠君愛国」的な考え方を生徒に吹き込みたいという願望で、「いきなりストレートにそれもなるまいな」と思ったのでしょうか、結局のところ「素直で心正しく、人の言うことを黙って聞くおとなしい人間を育てよう」というところに落ち着いたのかなと思います。
 道徳ったって、なにを教えるのかはっきりしない。薄ぼんやりした記憶を探ると、中学生の頃、時間割りに「道」の文字があったような気がする。その頃から私は「道徳」というのに対して「やだな」という気しかなくて、自分の時間割りに「道」なんていう字を書くのがいやだった。でも実際、その時間になると先生の方もなにしていいか分からないから、一時間のHRか席替えで終わってたような気がする。
 某県で私の文章が道徳の教科書に採用されたことがあって、送られて来た教科書を見たけども、その科目の狙いがなんなのか、さっぱり分からなかった。分からないのは、全体が「よい子の心得」みたいで、「こういうものに今時の中学生が付き合えるのかな?」と、かつて中学生だった我が身を想像して思ったからですが、それでふっと、「どうして“こういう悪いことをしてはいけない”という形の道徳教育は存在しないのかな?」と思いました。
 中学生くらいだったら、「こういうことをするのは恥ずかしいことです」という形で、ずるくていけないことを列挙した方が、身を乗り出すと思いますね。「いいこと」は退屈だけど、「ずるいこと」にはうっかりと身を乗り出しちゃう。「こういうことはずるいことだよ、人として恥ずかしいことだよ」という悪い例を教えた方が、邪悪なものに対する免疫が出来る。「こういう“いい人”になれ」という押しつけは、単調で規則順守の薄っぺらな人間しか育てないけれど、「してはいけない例」を教えれば、「自分にとっていい人間とはどういうものか?」と考えることになって、本当の意味での思考能力が育つ。
 もちろん今時の中学生だから、「恥ってなんですか? 悪くたって法律違反じゃなきゃいいんじゃないんですか?」くらいの口はきくでありましょうが、そういう時は、「恥ずべきことというのは、生き方がダサいということです。ダサくなりたいんですか!」と言やァいいんじゃないかと思います。
 道徳的に問題のある恥ずかしい例としては、次のようなことが考えられます――。

「あなたのクラスでは、”今度のテストはみんなで見せ合ってカンニングしようぜ”という秘密の計画があって、それに参加するメンバー達の間でメールが回っているという通報があり、そのメールを入手しました。ここに参加メンバー十人の名前がありますが、これは事実ですか?」と、校長先生から組担任が尋ねられましたが、そういうメールの存在を前から知っていた組担任は、「その十人と同姓同名の生徒は十人おりますが、なんのことでしょう?」と答えました。これは、本当に恥ずかしくて卑怯で、「いけしゃーしゃーと」というのはこういうことで、最低のことです。

 こういう例文が載っている道徳の教科書を、文部科学省はOKするのでしょうか?
「私には疚しいことなどなにもありません。なにかまた問題が発生したら、それはどういうことかときちんと説明いたします」と言って、それっきり説明の「せ」の字もないのは、責任ある立場の人間としてはとても恥ずかしいことで、卑怯陋劣とはこのことです――という例もいいな。
 子供は邪悪な感じのするむずかしい漢字が好きですから、陋劣とか怯懦という言葉を教えると喜ぶと思います。進学クラスの人間だけに忖度という言葉を教えるのは、問題だと思いますね。
 大体、担当大臣にさえろくな説明が出来ない法律を通してしまうということは、その法律の杜撰さや矛盾点を行政側が勝手に解釈して適用してしまうことでもあって、法治主義の原則に反することですが、そういうことが行われてしまうのは、道徳上の問題ですね。
 矛盾のある法律の細かい詮索ばかりしていると、「これでいいじゃないか」と思う側の言い逃ればかりがはびこって、そのことによって議論が複雑になり、なにが問題になっているのかが見えなくなってしまう。「担当大臣がまともに説明出来ない法案を議会に提出する」というのは、そのこと自体が間違っているということで、政治や法理論の問題である以前に道徳の問題。「恥を知れ!」という言葉が出て来ないのをいいことにすっとぼけているのは、これ以上ない恥ですがね。

PR誌「ちくま」8月号
 
この連載をまとめた『思いつきで世界は進む ――「遠い地平、低い視点」で考えた50のこと』(ちくま新書)を2019年2月7日に刊行致します。

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