ぃよいしょ
実を言えば、「よいしょ」の動作は「よ」や「しょ」以外で開始することもある。
1970年代から80年代にかけて頻繁に見かけた関西ローカルのテレビCMに、「亀岡山田木材」のCMがあった。ほんの15秒の短いものなのだが、最後にナレーターが「よいしょ!」と掛け声をかけ、一人の棟梁が大きな木材を高々と掲げる。あまりに繰り返し流れるので、当時の子供や若者は一度は真似をしたものだ。近くに一定の年齢以上の関西出身者がいたら「よいしょ!」と言って両手で何かを持ち上げる所作をしてみるといい。多くの人が「なつかしい!」と反応してくれるはずだ。現在もYouTubeで検索すればいくつものバージョンがヒットするのでぜひご覧いただきたい。
さて、わたしはふとこのCMを思い出し、あの木材を掲げる棟梁はおそらく最初の「よ」のあたりで力を入れていたのではないかと思って、映像を確認してみた。結果は予想を越えるものだった。ナレーターは「よいしょ」の前に「ぃ」と力みながら発声しており、棟梁は「ぃよいしょ」の「ぃ」の部分ですでに木材をほとんど持ち上げ終わっていたのである。
棟梁の動作は必ずしもCMの演出がもたらした極端な例とは言えない。わたしは長年、介護施設で職員さんが利用者の人たちを介助する様子を観察しているのだが、職員さんの中には相手の体を持ち上げようとして、まさにこの「ぃよいしょ」を発している人がいる。
ただし、「ぃよいしょ」の「ぃ」ですばやく持ち上げる人には、ある特徴がある。それは、CMの棟梁をはじめ、ほとんどの人が1人で持ち上げているということである。冒頭の「ぃ」という発声のみで2人以上の人が即座にタイミングを合わせるのは、おそらく難しいのだろう。例外は、「ぃ」が伸びる場合だ。介護職員が2人で何かを持ち上げながら冒頭の「ぃ」を使うときには、それはぐっと伸びて「ぃぃぃぃよいしょー!」となる。「ぃ」を伸ばしながら相手の力加減を感じて、「ぃ」が「よ」に移る間にタイミングを合わせているらしいのである。この、掛け声の一部が伸び縮みする現象はなかなか奥が深いので、いずれ詳しく考えよう。
ともあれ、どうやら掛け声には、動作を開始するための手がかりとなる箇所がいくつかあり、それは個人や場合によってばらつきがある。しかも、掛け声は単に動作の開始のきっかけとなるだけでなく、動作の開始に合わせて掛け声のあちこちが変化することさえあるらしい。これを、「動作の開始点」問題と呼んでおこう。
たかが掛け声のことを考えるのに、掛け声選択だのスピードだの動作の開始点だのと、なんとも複雑なことになってきた。せっかちな人はここまで読んで「そんな細かいことどうでもいい、適当にやればちゃちゃっとできちゃうし」と思うに違いない。わたしもそう思う。わたしたちは実際のところ、こんなに面倒なことを意識せずとも、気がついたら机を持ち上げているし、そこには話し合いを必要とするほど難しい問題が発生しているようには思えない。そして、これこそが、わたしが不思議に思っていることなのだ。なぜわたしたちは、生真面目に考え出したらとても複雑な共同作業を、たいしたトラブルもなく、あっという間にこなすことができる気がするのだろう? それは、わたしたちが面倒なことをやっていないからだろうか。いや、実は、自分でやっている面倒なことを意識していないからではないだろうか。
日ごろ私たちが無意識に行っている様々な動作には、実は精妙なプロセスが潜んでいます。
人間行動学者の細馬宏通さんが、徹底した観察で、さまざまな日常の行動の謎を明らかにする連載、
第1回のテーマは「掛け声」です。