資本主義の〈その先〉に

第16回 資本主義的主体 part5
4 守銭奴にして企業家

創造的な破壊の担い手

 自らの仕事をベルーフ(召命)と見なしてそれに専心する職業人と、倒錯的な守銭奴とでは、まったく異なる人格類型に見える。が、両者はほとんど同じである。ともに、この世ならざるところ(天国)に宝を積もうとして禁欲しているのだから。「禁欲」の方に目を着ければ、信仰篤き職業人だが、「宝を積む」方に目を着ければ守銭奴である。どちらにしても、崇高性と卑俗性との重ね合わせにこそ、その特徴がある。同じものを崇高性の面から見るのか、その裏の卑俗性の面から見るのか、ただそれだけの相違があるだけだ。
 だが、この二つとはまったく異なる(ように見える)人格類型に、資本主義的なものの本質を見た学者もいる。その学者をここに呼び寄せておこう。ヨーゼフ・シュンペーターである。ヴェーバーよりも20歳近く若い経済学者だ。
 シュンペーターが繰り返し論じていたことは、資本主義の本質はイノベーションにある、ということだ。イノベーションとは、新しいものを生産すること、あるいは既存のものを新たな方法で生産することである。それは、利用可能な資源や力の結合の仕方を変えること(新結合)、新しい商品を投入すること、新しい生産方法を導入すること、新市場を開拓すること、新たな原材料を発見し確保すること、新しい組織をたちあげること、等々によって実現される。こうしたイノベーションを実行する者のことを、シュンペーターは「企業家entrepreneur」と呼んだ[3]
 シュンペーターに言わせれば、企業家こそは、資本主義の主役である。もし資本主義を分析する経済学で企業家や企業家精神が論じられていなかったら、その経済学は「デンマーク王子の登場しない『ハムレット』〔つまりハムレットがいない『ハムレット』〕」に等しい。
 企業家と資本家は、実際には同じものである。しかし、マルクスが資本家の原型と見なした守銭奴とシュンペーターが重視する企業家とでは、イメージがまったく異なっている[4]。守銭奴の特徴は、今しがた論じたように、中庸への過剰な没入である。それは、与えられた自らのアイデンティティへの執着として現れるだろう。この点で、ヴェーバーが見いだした職業人も同じだ。職業が召命である以上、彼は、その職業と地位を手放さないだろう。
 それらとは違い、企業家は変化する。企業家の企業家たる所以は、新しいものをもたらすことにある。その新しさによる断続的な均衡破壊、いわゆる「創造的な破壊」こそが、企業家の使命だ。自らが世界(市場)にもたらすこのような大きな変化において、企業家自身が不断に変容せざるをえない。企業家の特徴は、一つの地位、一つの場所に安住することなく、絶えず変化することである。
 そうであるとすれば、シュンペーターは、マルクスやヴェーバーとはまったく違うものを見ていたということなのだろうか。マルクスやヴェーバーが見逃していた、あるいは無視していた、資本主義的な主体のアスペクトを、シュンペーターは捉えていた、ということなのか。
 だが、ここで「ベルーフ」を、本来の語にまで差し戻してみれば、シュンペーターが見たこととマルクス/ヴェーバーが重視していたことは、なお同じ範疇に収まっていることがわかる。「本来の語」とは、もちろん、「クレーシス」である。パウロが「クレーシス」と呼んでいるものには、とてつもない両義性がある、と前回、論じておいた。Xとして召命されている者は、一方では、Xに留まらなくてはならないが、他方では、Xではない者のように振る舞わなくてはならない。つまり、Xであることに深くコミットしつつ、Xではない者へと変化しようとしなくてはならない。
 前者(Xに留まる)の側面を重視すれば、ヴェーバーやマルクスが造形した主体像を導くことができる。後者(Xではない者への変容)の側面を、その最も基幹的な部分を否認した上で継承すれば、シュンペーター的な主体像を得る。
 後者の側面の「基幹的な部分が否認されている」とは、次のような意味である。パウロが、Xは「Xではない者のように」振る舞いなさい、と述べたときには、XのまさにXとしてのアイデンティティは、トータルに宙吊りにされ、無効化される。それは、間近に迫っている(とパウロは思っていた)終末への態度、この世界が破壊されるときに備える態度だからだ。それに対して、シュンペーターの企業家は、確かに常に変化し続けなくてはならないが、アイデンティティを全面的に否定するわけではなく、むしろ、アイデンティティを継続的に維持した上で自身を変更していくだけだ。彼がもたらすイノベーションは「創造的な破壊」かもしれないが、世界(市場)を破壊するわけではない。世界そのものが継続していることを、つまり同じゲームが続いていることを前提にした上での部分的破壊である。一つひとつの「(市場の)均衡」は破壊されるが、均衡一般が破壊されるわけではない。だから、シュンペーターの企業家は、パウロのクレーシスの破壊への指向性を、著しく稀釈した上で継承しているだけだ。
 いずれにせよ、ここで確認しておきたいことは、ヴェーバー、マルクス、そしてシュンペーターが提示した「資本主義を担う主体」の像は、「クレーシス」という概念の振幅の中に完全に収まっている、ということである。こうした論点を確保しておけば、われわれはやっと懸案の主題の方へと進むことができる。懸案の主題とは、カルヴァン派のインパクトである。ヴェーバーによれば、資本主義の精神へと転換するエートスとしては、ルター派だけではまったく足りない。カルヴァン派の方が重要だ。カルヴァン派まで視野におさめたとき、今回、形式的にのみ一つの範疇に収めた、さまざまな主体像が、どのように関係し、内的な統一性を呈することになるのか、説明可能なものとなる。
 だが、それにしても、カルヴァン派の教義は実に厳しいが、同時にまことに風変わりである。こんなものを信じる人がどうしているのか、と訝りたくなるような内容なのだ。

[1] エーリッヒ・アウエルバッハ『ミメーシス---ヨーロッパ文学における現実描写』篠田一士・川村二郎訳、ちくま学芸文庫、 上・267-8頁。
[2] ナショナリズムの時代には、俗語の文章が、「国語」として崇高性を帯びる。国語による小説や詩ほど、ナショナリズムの感情を鼓舞するものはない。近代において「国語」という観念をもたらすはるかな源泉は、ここに見たようなヘブライズム的な文体、崇高性を卑俗性と交錯させる文体だったかもしれない。実際、俗語が、国語と呼ぶに値するような文体や文字表現を獲得する上で最も重要な役割を果たしたのは、ルター訳聖書がその典型であるような、ラテン語の宗教的文献の俗語への翻訳であった。この翻訳、まさに宗教性の卑俗性への転換の作業を通じて、母語としての俗語が確立したと言ってよい。さらに言えば、西洋においては、宗教的な聖なる言語が、聖書に本来的に関係しているヘブライ語やギリシャ語ではなく、ラテン語だったことの意義をよく考えておかなくてはならない。ラテン語は、もともと聖書とは何の関係もない。ラテン語の聖書自体が、すでに、聖なる崇高な言語の俗語への翻訳なのである。西洋の聖職者や知識人が、学問と宗教の言語としてラテン語(ローマ帝国の公用語であり、イタリア半島の一地域での方言)を選んだとき、神のことを崇高な言語の内に保とうとする力と受肉の論理に従う力とが、同時にそして無意識のうちに、争いつつ作用していたのではあるまいか。
[3] J.A.シュンペーター『経済発展の理論』塩野谷祐一訳、岩波書店。j.A.シュンペーター『景気循環論――資本主義過程の理論的・歴史的・統計的分析(1)-(5)
』金融経済研究所訳、有斐閣。
[4] シュンペーターは、マルクスに対抗して、企業家と資本家とを別物だと主張しているくらいだ。

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