資本主義の〈その先〉に

第21回 資本主義の思弁的同一性 part1
1 伝道者とコンマン

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思弁的同一性

 われわれは、マックス・ヴェーバーのあの有名な研究をもとに、プロテスタントの、とりわけ予定説を信ずるプロテスタントの、時間をめぐる視点の構成が、資本主義の下にある主体が、たとえば投資するときの態度と同じ形式になっている、ということを確認してきた。とはいえ、プロテスタンティズムのエートスが、資本主義の精神に直結するわけではない。プロテスタントの時間は、「最後の審判」という、絶対的に一回起的な出来事、世界の終焉そのものを含意する出来事との関係で構成される。逆に、資本主義の時間は、絶対に終わらない時間、無限の時間でなくてはならない。前者から後者への転換は、どのように生ずるのか。

 この問いに対処する前に、次のことを確認しておこう。もしヴェーバーの説が正しいのだとすれば――われわれはそのような見通しをもって考察しているし、ここまでの議論はそれを裏付けつつあるわけだが――資本主義は、ヘーゲルが言うところの「思弁的同一性」の究極のヴァージョンだということになるだろう。思弁的同一性とは、あるものがその否定と同一視されてしまうことを指している。等式で書けば、「A~A」(「~」は ‘not’という意味)となる(1)。たとえば、最も高貴なものと最も下品なものとが合致してしまうとすれば、それは思弁的同一性である。

 ヘーゲルは、そのような例として、生殖器官と排尿器官との一致をあげている。男性の生殖器官は排尿器官を兼ねている。この一致に、われわれは何か神秘的なものを感じてしまう。生殖器官は、「子」や「愛」など、人間の生にとって最も崇高で貴重なものに関わっている。その同じ器官が、排泄のための器官であり、不用なもの、最も穢れたことに関わってもいる。両者の一致は、思弁的同一性の一例になる。

 同じような思弁的同一性が、資本主義を定義する。一方で、プロテスタントが想定している神は、あらゆる神の中で、最も徹底した超越的な絶対性をもつ神、唯一神教の原理を最も純粋に追求したときに導かれる神である。つまり、それは神の中の神、最も崇高な神だ。しかし、他方で、われわれは、貨幣への欲望を最も俗悪な欲望、最も現世的な欲望であると見なしている。ところで、資本主義の源流に、プロテスタントのエートスがあるというテーゼは、神とは資本(増殖する貨幣)である、という同一措定を含意している。この同一措定は、生殖器官は排泄器官であるという命題と同じ思弁的同一性を構成している。

 われわれの次なる問いは、この思弁的同一性がいかにして成り立つのか、である。つまり、神から資本(貨幣)への転換は、いかにして生ずるのか。

 

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