資本主義の〈その先〉に

第16回 資本主義的主体 part5
4 守銭奴にして企業家

中庸への過剰

 資本主義においては、崇高で神聖なことが卑俗で日常的な職業という形式をとる。その端緒が、宗教改革期に始まった「ベルーフ」だとヴェーバーは指摘した。同じ現象を逆方向から見ることもできる。つまり、最も俗悪なことが宗教的な崇高なものになっている、と。実際、マルクスが、ヴェーバーに先立って、そのように「資本」という現象を捉えている。この点を確認しておこう。
 ごく常識的には、資本主義の精神の特徴は強欲である。しかし、これは、ヤーコブ・フッガーを資本主義の精神の体現者とみなすことであり、ヴェーバーがはっきりと退けた見解である。この常識を退ける点で、マルクスも完全にヴェーバーと同じ考えをもっていた。マルクスによれば、「資本」の原型は守銭奴(貨幣退蔵者)であり、守銭奴は―強欲なのではなく―むしろ「禁欲の福音に忠実」である。守銭奴のような最も俗悪な者は、実は、禁欲的な宗教者とみなすこともできる、というわけである。
 どうしてなのか。守銭奴は、貨幣を溜め込むわけだが、貨幣をもつということは、――マルクス経済学の術語を使えば――使用価値(≒商品)をもつこととは根本的に違っている。貨幣を欲望するということは、使用価値への交換可能性だけを欲望することである。使用価値(商品)を買い、投資以外の目的で――つまり自分の快楽のために――使用し、消費してしまえば、その分だけ貨幣を失うことになる。したがって、貨幣を欲望することは、使用価値の消費にともなう快楽を断念することである。つまり、守銭奴は、物質的には無欲でなくてはならない。
 だから、マルクスの観点からは、守銭奴の態度は、「『天国に宝を積む』ために、この世においては無欲な信仰者」と同じである。そして、「もし宗教的な倒錯に崇高なものを見いだすならば、守銭奴にもそうすべき」であり、もし「守銭奴に下劣な心情を見いだすならば、宗教的な倒錯にもそうすべき」だという結論に至る。
 ここで、守銭奴という生き方が、伝統的な倫理を、つまり前近代社会で「善き生活術」とされているものを、きわめて奇妙な仕方で裏切り、否定しているということを理解しておかなくてはならない。伝統的な倫理の要諦は、アリストテレスが述べたこと、つまり中庸ということに尽きる。どのような方向であれ、極端に向かうのは善くない。限度を超えてある衝動に身を任せてはならない。愛欲だろうが、物欲だろうが、破壊にまでいたるほどの欲望を追求してはならない。限度を超えていこうとするこのような衝動に抵抗すること、これが、伝統的な倫理の中核ではないだろうか。言い換えれば、伝統的倫理は、欲望の有限性を条件とする。
 ところで、守銭奴はどうなのか。守銭奴の生き方は、まことに逆説的である。彼は、節度を保とうとする。つまり中庸であろうとする。守銭奴は、欲望の極端な追求を抑制している。とすれば、彼は、伝統的な倫理を忠実に体現しているかといえば、そうではない。守銭奴は、まさに「節度を保つこと」そのことを極限にまで追求しているのだ。節度を保とうとすることにおいて、彼は、節度を超えている。こう言ってもよいだろう。守銭奴は、欲望を抑えようとする欲望に関して過剰なのだ、と。あるいは、次のようにも言い換えられる。守銭奴は、有限性への無限の執着である、と。このように、守銭奴は、伝統社会の善の自己否定の産物である。その善が依拠している論理そのものを自己破綻にまで導いたときに、守銭奴が出現する。

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