資本主義の〈その先〉に

第22回 資本主義の思弁的同一性 part2
2 幸福の神義論への反転

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丘の上の輝く町

 レーガン大統領(在任1981-1989)は、ピューリタンの指導者ジョン・ウィンスロップが1630年に行った説教を好み、スピーチの中でしばしば言及・引用した。彼は、退任に際して、アメリカ全国民に向けてメッセージを送ったときにも、この説教を引用している。さらに、その15年後、レーガンの国葬の式典でも、サンドラ・オコナーが、聴衆を前にして、この説教を読み上げた。オコナーは、レーガン大統領の指名で、女性として初の連邦裁判所判事となった人物である。このエピソードをその著書の冒頭で紹介している森本あんりは、「カリフォルニアの太陽のように明るいレーガン」と「厳格さと陰鬱さ」のイメージが濃厚なピューリタンとでは、奇異な組み合わせに思われるかもしれないが、少なくともレーガンは、ウィンスロップの説教に恥じない生き方をしてきたと確信していたはずだ、と述べている(1)

 ウィンスロップは、これからニューイングランドに発とうとする開拓者たちを前に、何を語ったのか(2)。彼は、その説教で、アメリカを「丘の上の町」に喩え、喜びと苦労をともにしつつ、神の前で正しく生きよう、といった趣旨のことを語った。重要なのは、この「丘の上の町」である。この言葉は、新約聖書「マタイによる福音書」にあるイエスの語りに由来する。

 

  あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あか    

  りをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のす  

  べてのものを照らさせるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝か

  し、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父を

  あがめるようにしなさい。(「マタイ福音書」514-16節)

 

 ここで言われていることは、アメリカは、丘の上で煌々と輝く町のようなもので、人々の目は不可避的にそこに注がれることになる、ということだ。レーガンは、アメリカが、とりわけ自分が大統領の職にあった期間のアメリカは、「よいおこない」のゆえに人々の注目に値するような社会として成功した、と自画自賛していたのである。

 ウィンスロップの説教を――森本あんりの導きにしたがって――もう少し見ておこう。ウィンスロップは説教の後半で、旧約聖書「申命記」に言及している。ここ(3015-18)で神は人間に二つの道を用意する。「命と幸いの道」と「死と災いの道」である。神が「あなたがた」と呼びかける人間たちが、神の声に従い、神の定めた目的を追求するならば、彼らは「命と幸い」を得るだろう。もしこれに背くならば、つまり神をそっちのけにして自己の快楽や利益を追求するならば、「死と災い」に向かうだろう。

 ここにあるのは、神と人間の間の「契約」というアイデアである。ここから、次のような考えが導かれる。人間の側は、神との約束を果たす。そうすれば、神の方も、人間との約束を履行するはずだ。つまり、人間に「命と幸い」をもたらすはずだ。

 レーガンは、先に言及した退任のスピーチで、「マタイによる福音書」の「輝ける町」について語り、ウィンスロップの名を出しながら、アメリカ社会の喩えであるその町は、自分が就任する8年前よりも、「さらに豊かに、さらに安全に、さらに幸福になった」と誇る。「アメリカは、かつても今も、自由を求める人びとのあこがれの国であり、安住の地を求めてく暗い夜を彷徨うすべての人にとっての家である」と。レーガンのスピーチは、「われわれは自分の役割を果たした」、「われわれは成し遂げたのだ」で、結ばれる。

 この最後の言葉は、契約、神との約束ということをベースにしないと、その真意をつかめない。それは、互いに約束したことの中で、自分自身の担当部分はやり終えた、という趣旨だ。とすれば、次は相手、すなわち神の番である。神は約束を果たすだろうし、実際に果たしつつある。その証拠に、アメリカはより豊かになったり、幸福になったりしている、というわけである。

 

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