資本主義の〈その先〉に

第23回 資本主義の思弁的同一性 part3
3 二つの千年王国論

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ピューリタンの出エジプト

 いわゆる「新大陸」のイギリス植民地は、それ以前の――主としてスペイン人やポルトガル人によって建設された――植民地とは、決定的に異なっていた。以前の植民地は、すべてカトリックの「王国」の新大陸への拡大であった。それに対して、アステカやインカが滅ぼされてからおよそ1世紀後に北米に建設されたイギリス植民地は、主として、プロテスタント、しかもピューリタンと呼ばれた、きわめて厳格でラディカルなプロテスタントを主たるメンバーとしていた。

 よく知られている事実を確認しておこう。一般に宗教改革の端緒とされている出来事、つまりマルチン・ルターがヴィッテンベルク城の聖堂の扉に「95カ条の提題」なるカトリック批判を発表した出来事から17年後に、イギリスでは、ヘンリー8世が、自身の離婚問題でローマ教会と対立し、イギリス国教会を創始し、自らがそのトップに就いた。細かい経緯を省けば、このイギリス国教会がおおむね定着し、安定化したのが、16世紀後半のエリザベス1世のときである。イギリス国教会は、ローマの教皇に服していないという意味では、プロテスタントに属するが、離婚問題という一事を切り抜けることが発端であったことからも推察されるように、実質的な内容に関しては、カトリックとの差は小さく、とりわけ典礼(サクラメント)については、おおむねカトリックのやり方を継承していた。

 それゆえ、厳格なプロテスタント、とりわけカルヴァン派は、こうした改革はまったく不徹底であると考えた。彼らの念頭にあったのは、ジュネーヴでカルヴァンが実行したような改革と政治だっただろう。結果として、カルヴァン派の信者たちは、国教会と対立し、イギリスにいることが困難になった。ピューリタンと呼ばれる、信仰の浄化を求める者たちは、まずは、オランダに逃れ、そしてついにアメリカに渡った。彼らは、旧大陸から新大陸へと向かう自分たちの航海を、旧約聖書の「出エジプト」に喩えていた。

 このような経緯でイギリスの植民地は建設された。それゆえ、後にアメリカ合衆国となるこの植民地の共同体は、カルヴァン派のエートスに強く方向づけられている。このカルヴァン派のエートスこそ、アメリカなる理念の中核である。

 だが、このような事実を踏まえると、ひとつの謎が浮き出てくる。前回記したその謎をもう一度繰り返しておく。アメリカ的な精神の顕著な特徴は、実に率直な「幸福の神義論」である。それに対して、カルヴァン派の中心的な教義である予定説は、「苦難の神義論」の極限に現れる思想である。たとえば、新大陸に渡ったピューリタンがイギリス国教会を手ぬるいと見なしたのは、そこに、カトリックと共通の幸福の神義論の残滓を認めているからだ。とすると、アメリカという場所で、苦難の神義論の極大値が幸福の神義論の極大値へと、一挙に転換していることになる。神義論の変容、神義論の振幅としては、これ以上の大きさはなく、それゆえ最もありそうもない変化である。神義論のこのような転換は、なぜ、いかにして生じたのか。これが、われわれの前にある謎であった。