ラクするための経済学

第3回 新入社員にとって初日でやめるのは、損か?得か?

「ラクするための経済学」の第3回目を掲載します。人生における見切りについて考えます。キーワードは「過去ではなく、未来のために時間を使う」です。ぜひご覧くださいませ。

なる気にもならない
 以前、自民党のある若い衆院議員と話をしていたとき、ふと「もし自分が総理大臣になるとしたら、少なくとも、この人のあとになるのだな」「それは無理だ」と思った。
 ちなみに、進次郎ではない。好むと好まざると、自民党には「進次郎の次」とか、その次までいるのだ。私は総理大臣になりたいわけではないが、子どもの頃は「しょうらいのゆめはそうりだいじん」と答えていた記憶がある。その頃は純粋な童心で、天皇にはなれないが、総理大臣なら可能と思っていたのだ。
 子どもには無限の可能性があるというものの言い方は、夢があってよいと思う。だが、より正しく言うならば「どの子どもも、将来どうなるかを、いまの段階では高い精度では予測できない」となるだろう。もちろん夢のない言い方である。
 一方、私は42歳なので、それなりに将来を予測できるし、そんなに夢のある言い方を自分に求めてはいない。いまさら無限の可能性があるとしても、その探求なんか面倒くさくてやりたくない。
 たいていの職種では、高い地位に行くには時間がかかる。企業でも官庁でも大学でも、修練を積んで、適切なキャリアの階段を登る必要がある。学ばねばならないこと、使えねばならない技術、培わねばならない人脈など、山のようにあるからだ。自民党の衆院議員だと、大臣になるためには、過酷な小選挙区選挙で、通常は5回以上当選せねばならない。想像しただけで吐血しそうだ。

早めの見切り
 
 私は大学生のとき、中野に本部がある劇団「スタジオライフ」に入っていた。ここは萩尾望都の傑作『トーマの心臓』を上演する男優のみの劇団で、萩尾先生の熱烈なファンであった私はオーディションを受け入団したのだ。
 当時はもう総理大臣ではなく、舞台役者になりたかったのだが、スタジオライフに入った初日にそのことをあきらめた。すばらしく容姿がよく、高い技能をもつ人たちが全力で稽古に挑むさまを見て、ああ、これは、自分は永久に勝てないと一瞬で悟ったからだ。入団した初日に、長くは続けまいと心に決めた。
 初日の歓迎会では、面倒見のよい先輩から「三年は続けろよ」と真顔でいわれて、思わず「はい、やめません」と強く見返したら、「その眼は本物だ」と喜んで笑ってくれた。私は胸が痛んだが、たぶんあのとき彼はすでに、私が長続きしないことを予感していたように思う。
 もしかするとあのまま続けていれば、私は役者として成功していたのかもしれない。誰にもその可能性を完全には否定できない。でも、やはり早く見切りをつけてよかったと思う。

 毎年4月になると、「初日に辞める新入社員」のニュースを目にする。もう少し我慢しろ、忍耐をもて、といった批判的な論調が多い。
 しかし、あっさり初日に辞めるのは、そう悪い戦略ではないと思う。まず、心身を壊して辞めるよりも、ずっと洗練されている。
 それに、心身を壊さないにしても、辛い職場をだらだら耐えるのは、苦痛である。それだけでなく、耐えているうちに、時間が経過する。つまり自分の持ち時間が減少する。若い時期は人的資本を蓄積しやすいので、「ああ、俺はここでは続かない」と確信したならば、もはや今後につながらない仕事に時間を費やすのはもったいない。未来のために時間の使用を組み替えたほうがよい。
 もうひとつ、初日に辞める新入社員でえらいと思うのは、「せっかく採用されたのだから」と、その経緯を惜しまないことだ。大抵の職場には、採用されるために、就職活動というコストがかかる。そこで払ったコストを惜しんで、やめたくないという感情が起こる。すでに払って戻ってこない費用を、経済学ではサンクコスト(埋没費用)というが、人間はサンクコストにとらわれがちだ。だが戻ってこないものを惜しんでも、戻ってはこない。
 過去は変えられないのだから、未来を変えることに専念したほうがよい。

損切り
 買った株が大幅に値下がりしたときに、売るべきか、それとも保有し続けるべきなのだろうか。一つの有力な戦略は「損切り」だ。たとえば買値を10%下回ったら、何も考えずに売ることにする。最近のオンラインで行う株取引だと、コンピュータに損切りの設定をしておけば、事態の発生時には自動的に売却してくれる。
 ここで重要なのは、事前にルールとして決めておくことだ。
 その場になって対応を決めるのだと、「明日は値上がりするかもしれない」といった希望的観測にすがりつきたくなる。だから事前にルール化しておく。ルールというのは便利なもので、それに従うと一度決めれば、その後はルールが定めることについて意思決定せずにすむ。その場の希望的観測に惑わされなくてすむし、意思決定の回数を大幅に省略できてラクだ。
 人間関係でも損切りの発想は有効だ。たとえば結婚するときに「相手が浮気したら、離婚する」と固く決めておけば、相手が浮気しなくなるかどうかはさておき、浮気の事態が発生したときに、だらだらと悩んだり、ずるずると結婚関係を続けなくてすむ。一定の条件のもとで人間関係や取引を絶つことを、冷静なうちに決めておくと、大きな失敗は避けられる。失敗を小幅にとどめ、成功を重ねるうちに、トータルでは勝てる。
 そういうのは非人間的だと思われるかもしれないが、そのとおりである。ルールとは、その性質上、柔軟性を欠き、感情的でないものだ。非人間的であることがメリットなのだ。
 売れっ子のミュージシャンやお笑い芸人など、なるのが難しい職業を目指すときにも、損切りの発想は有効だ。「何歳までに○○になれねば目指すのをやめる」と決めておくのだ。この場合、何をもって損失とカウントしているかというと、他の職業をめざしていたときに蓄積されたであろう技術や知識や人脈、まとめていうと人的資本である。他所で使える人的資本をもたずに年齢を重ねると、労働市場を生き延びるのは難しい。
 損切りがインストールされた制度には、司法試験がある。弁護士や裁判官などの法曹職に就くには司法試験に合格せねばならないが、この試験が難関で、旧制度のときは何十年も「司法浪人」を続ける者がいた。しかし現在の制度では、受験資格を得てから5年間(5回)しか、受験することができない。夢を目指し続ける自由を、人生を費やしすぎないようにという温情主義(パターナリズム)が奪った格好である。

別の場所があるうちに
 
何かをあきらめたときに、それまでの時間がすべて無駄だった、とはかぎらない。そもそも自分が納得できればよいのだし、また、それまでに蓄積した人的資本が、別の場で活かせるかもしれない。
 たとえばお笑い芸人になるのをあきらめたが、会話の技術を駆使して、営業や販売で活躍といったように。あるいは、アイドルとしての自分には見切りをつけたが、タレント性と知名度を活かしてアナウンサーに転身といったように。そこで成功したら、あきらめたことが、結果としてステップアップであったということにもなるだろう。
 人には後から振り返って「あの経験は無駄ではなかった」と思うことがある。自分のそれまでの人生の歩みへの、ささやかな祝福である。ただしこれを味気なくいってしまえば、かつて形成した人的資本が、後から思わぬ形で使えたということだ。
 何かの可能性を追求することは、他の可能性を追求しないことだ。この損失は目に見えないが、時間とともに累積していく。やめても行くところがない、というのは非常にラクではない。そうなる前に成功するか、あきらめるほうがよい。あきらめた後は、それまで蓄積した人的資本が活かせる分野に参入するのが得策だ。それが活かせない分野でまったく新しいことを始めるのは、チャレンジングで楽しいかもしれないが、しょせんは素人になるということだ。
 チャレンジ自体に価値がないとはいわないが、結果がほしいならば、いまの自分を活かせるほうがよい。