ラクするための経済学

第5回 マルチ商法の期待値

とても魅力的な話だがリスクがある仕事を依頼された時、あなたならどうしますか?「ラクするための経済学」第5回は、そうしたときにどのように考えることができるのか、いろんなケースを想定します。

 以前、あるマルチ商法の団体から、年次大会での講演を、高額な報酬で依頼されたことがある。高額といっても私にしてはということで、特殊な美顔器でいうと5台ぶんくらいである。拘束は2時間程度で、そのうち1時間喋ればよいという。世のなかにうまい話はないというが、その依頼メールを受け取ったときには、私にはそれがあるのかもしれないと思った。
 念のため、マルチ商法とはネットワーク型の会員制販売ビジネスで、会員(親)が友人知人を誘って新たな会員(子)にすると、子があげた利益の一部が親に入る。いわゆるネズミ講のようなもので、国民生活センターは「ネズミ講式の取引形態」といっている。人間関係のトラブルが起きやすく、2017年の消費生活相談データベースに寄せられた相談件数は1万1000件を超すという。
 マルチ商法は、合法とされるが、グレーではある。こういうときの判断は難しい。
 世のなかの禁止事項が法律だけで定まっていたら、人間が生きやすいかどうかはさておき、意思決定はラクであろう。合法ならやればよいし、違法ならやらねばよい。しかし世のなかには世間の「コード」というものがあって、明文化されていないうえ、踏むと叩かれる。法的に問題はなくとも、経済的に自分の市場価値が下がるのである。
 私はマルチ商法を、好きではないが、ものすごく嫌いというわけではない。以前、マルチにハマった友人から熱心に入会を誘われたことはあるが、断ったあとも普通に友人関係を続けている。大昔に親戚がハマりかけたことはあるが、必死に止めたらとどまってくれた。
 私は基本的に「自由な経済活動」を尊重する経済学者であって、マルチ商法だからといって、一概に否定したくない気持ちがある。善いとか悪いとかではなく、まあそういう商法もあるよねといった具合だ。よって私がこの依頼を受けるか否かは、善悪で判断するのではなく、ひたすら損得で判断することになる。
 マルチ商法からお金をもらうことが、どの程度、世間のコードに抵触するのか、それによる損失はいくらになるのかを考えねばならない。損得のうちの「得」は非常に分かりやすくて、高額な報酬である。一方の「損」は難しい。評判の低下が起こるとして、どれくらいの確率で起こり、どの程度の損失をもたらすかは不明だ。

リスクと不確実性
 20世紀前半に活躍したシカゴ大学の経済学者フランク・ナイトは、現在から見て不確定な将来のことを、リスクと不確実性に分類した。リスクは「どの事態がどれくらいの確率で起こるか」が分かっているが、不確実性はそれが分かっていない。
 たとえば明日の天気は不明だが、雨の確率が50%だということは分かっている、というのはリスク。明日、宇宙人は地球に襲来してこないと思うけれど、その確率が何%かは分からない、というのは不確実性だ。
 もし私がマルチ商法の大会で講演したときに、50%の確率で100万円ぶん損することが分かっているなら、損失の期待値を「0.5×100万円=50万円」と計算できる。この期待値と報酬の金額とを比較して、意思決定の材料とできる。だが実際には50%といった具体的な確率や、100万円分といった金額が、あらかじめ分かるわけではない。そんなものはさっぱり不明であって、期待値の計算などできっこない。

ワーストケースシナリオ
 結局、私は「ある与党の国会議員が、マルチ商法の大会で講演をして、政治献金をもらい、国会で厳しく追及された」という事実を、判断の材料とした。
 国会は相当、「世間のコード」に厳しいところのように見える。不倫がばれたり、3500円のカツカレーを食べたことがばれたりしたら、敵対する側から糾弾される。それらの糾弾がまっとうかは一切さておき、厳しいコードを知るには国会はよい教材だ。
 かなり厳しめのコードで判断するのを、純化したのが「ワーストケースシナリオ」による判断だ。これは最悪の事態、つまり起こりうる最も厳しい追及でも耐えられるか、を判断基準とする。むろん「起こりうる最も厳しい追及」が正確に分かるわけではないし、私が議員になる予定があるわけでもないが、国会は相当厳しそうなので、参考とする妥当性は高いだろう。
 確率が分からない不確実性のもとで、不確実性を嫌う者は、ワーストケースをもとに意思決定せよ、というのは意思決定理論でよく推奨される判断方針である。理論的基礎は色々あるのだが、私にとってこの方針の魅力は、ワーストケースは現実の事態を参考にして想像しやすい、という点にある。客観性が高いので、ワーストケースといっても過度に悲観的にならなくて済むし、欲にまみれた主観に流されなくて済む。
 もちろんこれは、不確実な未来を好むとき向けの判断方針ではない。しかしそういうときでも、欲で目が眩んでいるおそれがあるときには、思い出すと冷静化に便利である。

熟慮の効果
 というわけで、期待値やらワーストケースやらをうだうだ考えたすえ、私は「引き受けないほうがトク」と判断して、マルチ団体に丁寧な断りのメールを書いた。
 私がこの件でよかったと思うのは、先方から依頼を受けたときに、高額報酬による衝動(インパルス)で「引き受けます」と即答しなかったことだ。時間をとって熟慮したわけだ。熟慮というとなんだか聞こえはよいが、この場合は、たんに自己利益を丁寧に計算したということだ。
 直感と熟慮の比較というのは社会科学の諸分野でなされていて、「熟慮すると自己利益を丁寧に計算するようになる」というのは、かなり確立した結論のひとつである。これは熟慮がよいとか悪いとか言っているのではなく、たんにそういう性質があるのだ。
 こうして私はマルチ団体から報酬を受け取り損ねたわけだが、いまでもあれは惜しかったと思いかえすときがある。あのとき引き受けていたらどうなっていたのだろうとも思う。
 なんとなく私は、宇宙は無数に存在するような気がしている。それらは選択肢の数だけ枝分かれに分岐している。そのなかのひとつの宇宙では、私はマルチ商法の講演を引き受けている。都心の豪華なホテルの会場に、千人を超す会員たちが集まっている。大半の連中は儲かっていない奴らだ。壇上の私は彼らを勇気づけるように、マルチ商法の素晴らしさを情熱的に語る。スーツは新調しており、上質の布地がライトを浴びて品よくきらめいている。
 皆さんは全員、必ず成功できるのだと私は言う。手を振り上げて、新時代のビジネスはここからはじまるのだと叫ぶ。高揚。会場に熱気と一体感がみなぎる。その講演の評判があまりによくて、私はマルチ商法の広告塔として重宝されるようになる。
 そんな宇宙が並行世界のどこかにあるような気がする。
 とはいえ私が住む宇宙はこっちであって、そっちではないので、今後も私がマルチ商法と関りをもつことはないだろう。しかしそっちの宇宙の私には、それはそれで活躍して、楽しく暮らしてほしいなとは思う。もう二度と会うことのない昔の友人にそう思うように。