ラクするための経済学

第7回 カード払いと現金払い、どっちがよいのか?

あるときお金の管理がぜんぜんできなくなった坂井先生。 今回はそのことを振り返り、キャッシュレスの支払いと現金払いについて考えてみます。

成功による失敗
 何年か前のことだが、お金の管理が目茶苦茶になったことがある。収入がなくなったのではなく、ようやくいろんな仕事が軌道に乗って、不定期な収入が増えたときだ。大金というわけではないが、まとまったお金が不規則に得られるようになった。長年の地道な活動の結果なのだが、そのときはあぶく銭のように感じていた。
 「悪銭身に付かず」というが、これは正確な表現ではないと思う。英語だと「Easy come, easy go」(簡単に手に入ったものは、簡単に去ってゆく)というが、たぶん人はポンと入ってきたお金を、ポンと使いがちなのだと思う。
 「あの人はいま」的なテレビ番組で、かつて一世を風靡した芸能人が「あのとき稼いだ大金はあっという間に使い果たしてしまった」と過去を述懐するシーンを見ることがある。私とは金額の桁が違う話だが、そうする気持ちというか、そうなる行動は分かる気がする。宝くじの高額当選者が自分を見失うのと同じようなものなのだろう。
 これはある程度は、免疫の問題だと思う。普段からお金のことをきちんと考えている人や、経営の資金繰りを仕事にする人なら、大金が入ってきても、そう変なことをしないで済むのだと思う。しかしそういう免疫がない人は、一度は失敗するほかない。そこでできるのは、失敗による損失を、立ち直りが可能な水準に押し止めることだけだ。
 あまりこういうことを人に話したことがないので、他の人がどうなのか、実のところよく分からない。

カード払いによる行動変化
 私の消費を悪化させたのは、不定期な収入だけではない。間違いなく、カード払いが大きな要因であった。カード払いだとお金が減る感覚が弱いので、麻痺的にお金を使いやすい。
 実際、人間は、現金払いよりもカード払いのほうが、買い物の金額が上がるという調査結果は多くある (1)。寄付を募るときでも、カード払いを認めると寄付額は大幅に増える。買い物の意思決定までの時間は短くなる。現金とカードは、たんなる支払いの代替物ではない。それは人間の消費行動を変容させるのだ。
 こうしたことに薄々勘づきながらも、私はカード払いを続けていた。33歳のときにインビテーションを受けてから、高額な年会費のプラチナカードを愛用していたが、これは虚栄心をほどよく刺激してくれた。私は自分がカード会社の思惑にハマっていることを重々承知していた。しかし、それを知ったうえで、気持ちよくカモられるという愉しみも世のなかにはある。
 やがて私のカード支払額は、収入を上回るようになった。支払いができなくなると、銀行系のカードローンでお金を借りて、カード払いにあてた。多重債務者の誕生である。これは最初のうちは嫌だったが、続けるうちに慣れた。しょせんクレジットカードもカードローンも、液晶画面上にデジタルな数字を借入額として表示するだけである。
 結局お金というものはただの数字であって、その数字の前につく記号がプラスなら貯金があり、マイナスなら借金があると解釈される。しかしそれが、いったい何だというのだろう。私にとって大切なのはあくまで日々の暮らしであって、記号の形状ではない。
 読者はこうした思考を、馬鹿だと思われるだろうか。まあ私も、賢明だとは思わない。でも馬鹿だと切り捨てるのは、ちょっとこの人に気の毒だと思う。本人も好んで馬鹿をやっているわけではないし、お金はしょせん数字にすぎないというのはある程度は事実である。

なんとか立ち直る
 あるとき、カードローンの借入額がどかんと上がった。理由はよく分からない。たがこのとき「あ、このままだと、なんかやばいかも」と直感した。利払いに追われ、元本は膨れ、自宅が銀行に差し押さえられる自分の姿が想像できたのだ。たまたま郷里から訪れていた母にこの話をぼかしてすると、母はぼかした内容を正確に把握して、私をガチで叱りつけた。愚かな息子でほんとうに申し訳ない。
 しかしまあ、そんなこんなで、ようやく「俺はこのままだとやばい」と気づいたのであった。どうにかしないと家計がもたないし、将来子どもの教育費が払えない。私はひとつの対処法としてクレジットカードを解約することにした。
 これでまず、年会費を支払わなくてよくなった。そして、ロクに考えずポチっていたAmazonからはカード情報を削除し、食品の通販サイトOisixの定期便を解約した。リアル店舗で現金払いという、おそらくは時代に逆行した買い方しかしないことにした。これだけいうと簡単に聞こえるかもしれないが、消費の方法を大がかりに変えるのは、けっこう大変であった。
 また、収入や収入の予定を、会計ソフトで細かく記録することにした。多少、面倒ではあるが、これで収支が分かるようになった。ようやく管理というものが始まり、私は適正な支出額を把握できるようになった。よくダイエットでは体重を記録するのが大事だと聞くが、それと同じことだと思う。ただしお金は体重と違って、フローとストックが入り乱れており、全体像をつかむのが難しい。大学生のとき受けていた簿記の授業が役に立った。
 来る仕事を全部受けてカードローンを完済した。このときの、お金のためだけに働く仕事は苦痛だったので、金輪際こうした状況には陥るまいと決心した。そうしてなんとか立ち直ったはずである。
 私は馬鹿だが、馬鹿だと気づける程度には、馬鹿すぎなくてよかったと思う。

キャッシュレスと「便利」
 最近「キャッシュレス」という言葉をよく見聞きする。中国では何でもスマホの決済で買える、日本は現金払いが多く遅れている、もっと便利な電子マネーを普及させよ、といった論調でキャッシュレスは語られる。
 たしかに現金は、電子マネーに比べると不便である。しかし不便が、効能になることもある。たとえば私の場合は、不便な現金しか使わないことで、お金の使用にかかるコストを上げ、浪費が抑えられるようになった。不便によって、幸福になったといってもよい。「便利」とは機能を評価する言葉であって、それが導く心の状態を表す言葉ではない。
 日本社会のキャッシュレス化は進行するのだろう。だがそれは、支払い方法の変化だけでなく、人々の消費行動を変えるはずだ。私にはそれが、自分という乗り物のコントロールを一層難しくする、なかなか厄介な変化であるように思える。

注(1)Feinberg, R. A. (1986) “Credit Cards as Spending Facilitating Stimuli: A Conditioning Interpretation” Journal of Consumers Research