人生につける薬

第5回 作り話がほんとうらしいってどういうこと?

物語は小説だけじゃない。私たちの周りにある、生きるために必要なもの。物語とは何だろうか?

人は納得したいと思うもの……

 世のなかには、純粋にストーリー部分だけのおもしろさを追求するタイプの話、というのも存在します。とくにジョークや怪談は、これといった教訓を必要としないばあいが多い。

 

 そういう純粋にストーリー部分だけのおもしろさを追求するタイプの話でないばあいには、ストーリー部分だけを聴いて、聴き手の手持ちの一般論に一致するものがないばあいには、聴き手は、

「要するにどういうこと?」

「で、オチは?」

と言いたくなってしまうこともあります。

 

 世に流通するストーリー(口頭での発話を含む)の多くは、小説ほど複雑な構成を持たないため、「一般論」(できごとの因果法則や「教訓」)を要求される傾向があります。

 しかし小説のような複雑な構成物でも、ストーリーの受け手(読者)は、自分が聴いているストーリーが自分の手持ちの「一般論」のレパートリーに一致すると、「納得した」「ほんとうらしい」と思う傾向があるようです。

 

 以下、ジェラール・ジュネットとツヴェタン・トドロフという、ふたりのフランスの文学理論家の論をヒントにしながら、作り話(フィクション)における「一般論」と「納得感」について考えていきましょう。

 

実話は必ずしも「ほんとらしい」話でなくていい

 ジュネットも挙げているのですが、17世紀フランスで、コルネイユの悲劇『ル・シッド』と、ラファイエット夫人の小説『クレーヴの奥方』が、この点で問題となりました。

 

 『ル・シッド』の主人公ロドリーグは、家門の名誉を汚した敵と決闘して、これを倒します。その前に彼はたいへん悩みます。なぜなら、その敵とは、恋人シメーヌの父だったからです。

 シメーヌはロドリーグを父の仇とみなしますが、いろいろあって最後には、ロドリーグとの仲がさらに深まってしまい、結婚を約束します。

 

 『クレーヴの奥方』のヒロインは、夫のある身でありながら、ヌムール公という男性と思い思われる仲となります。彼女はこんなことをしていてはいけないと考え(といっても、現代の感覚からすると、ヒロインもヌムール公も「なにもしていない」に等しいのですが)、相手への思いを断ち切ろうとして苦悩します。そしてこのいきさつを洗いざらい夫に話してしまうのですが、不幸な行き違いから夫は、妻が不倫を継続していると誤解し、こちらが苦悩のあまり死んでしまうのです。

 

 それがヒーローにふさわしい傑出した人物であったとして、自分の父を殺した人物と婚約できるものでしょうか?

 貞節の規範を尊重する妻であったとして、そのタイミングで夫に告白してしまうものでしょうか?

 当時の論客のあいだで、これらの作品は物議をかもしたそうです。

 

 大事なことは、当時の論客が、

「そんなことは現実にはありえない」

と考えていたわけではない、ということです。

 

 そうではなくて、

「父の仇と結婚する、そういう常軌を逸したことは現実には起こりうるだろう。だからといって作り話である劇でそれをやるのは、ほんとうらしくない(=納得した感がない)」

という意見を持つ人がいた、ということなのです。

 

・「ほんとうに起こるかと言われたら、(案外)起こるかもな」と思うこと

・「作り話だけど、ほんとうらしいな」という納得感を持つこと

 このふたつのあいだにはズレがある、と、当時の論客は考えました。

 

「小説より奇」は、現実の特権

 17世紀古典主義のフランスでは、文学の表現においては「良識」を持つこと、「適切」であることが重視されました。

 そして、『ル・シッド』『クレーヴの奥方』の筋を、「不適切」と見なす人がけっこういたというわけです。

 

 ここでいう「適切」とは、礼節や節度といった意味が含まれると同時に、作品が属する「ジャンル」のマナーや規則に適合していることも意味しています。

 

 これは17世紀の話にかぎりません。

 いまでも僕たちは、実話には要求しないタイプの説得力を、フィクション──とりわけ、娯楽小説やアクション映画など、「お約束」を重視する型の虚構コンテンツ──に求めてしまうことが、ままあるようです。

 

 たしかに西部劇ではもめごとはなんでも暴力でカタがついてしまい、異世界ファンタジーでは魔法がザラに使用され、謎解きミステリ小説では異様に凝った方法で殺人が実行され、ある種のライトノベルでは取り柄のない男の子が女の子(たち)にいきなりモテてしまいますが、そういった「ほんとうらしくない」ことが起こるジャンルであっても、そのジャンル内で要求されるべつの「違和感のなさ」「納得感」が要求されます。

 

 ツヴェタン・トドロフも示唆しているように、人は、言説やコンテンツがどういうジャンルに属するかを判断したうえで、そのジャンルの「お約束」に合致しているかどうかを気にしながら、その言説やコンテンツを受信・解読していくもののようです。

 そして、説得力の基準は、作品が属するジャンルによって、ときには大きく異なります。謎解きミステリ小説では「違和感のない」筋でも、それを時代劇に移植したら、そこだけ浮いてしまうかもしれません(逆にそれが新鮮な魅力になることもあるでしょう)。

 

 逆に言えば、人はこういう意味での「ほんとうらしさ」「納得感」「説得力」を、実話には必ずしも要求しません。

 TVのワイドショウや週刊誌の注目を浴びる事件とよく似たストーリーを、小説家が作品として書いたとしたら、編集者はそれをボツにしてしまうのではないでしょうか。

 「小説より奇」であるのは、現実の特権というわけです。

 

説得力の背後に格言がある

 17世紀フランス古典主義文学の例だと、「ほんとうらしい」筋とは、それが受信者(想定された観客や読者)の文化で共有されている一般論(格言)という類(タイプ)の一例=種(トークン)であるような筋のことです。

 

 ところで、この「一般論」が、ストーリーの発信者によって言葉で明言されるかどうかは、ケースバイケースです。あまりにも自明であると思われるとき、「一般論」や「教訓」を言わずともストーリーを聞いただけでわかるとみなされ、それを省きます。

 

 個別の登場人物である太郎くんが正直さのせいで損をするストーリーは、「正直者(一般)は馬鹿を見る」という格言を持つ文化圏の読者にとって、一定の「ほんとうらしさ」を持つのです(あくまで、一定の、ですが)。だから、太郎くんが損をすることについて、これといって明言する必要はありません。

 

 ジェラール・ジュネットが挙げている例がこれです。

〈侯爵夫人は車を呼び、そして出かけた〉

 なぜ出かけたのか? 車が来たからです。なぜ車を呼んだのか? 出かけるためです。

 こういったつながりを、わざわざ言う必要は、通常はありません。なぜ? という疑問すら、抱かないからです。

 

 ところが、『クレーヴの奥方』の問題の場面では、登場人物の行動が、当時の読者が共有している「格言」に反していながら、その動機を説明しませんでした。

 だから、当時の読者にとって、登場人物の行動は不条理であり、作品内にその説明がないがゆえに、納得いかないという感じを与えるものでした。

 しかしこの割り切れなさは、17世紀の読者が「作り話の納得感」と「実話っぽさ」とを切り分けていたから起こったことです。

 

 ジュネットが作った例で言うならば、

〈侯爵夫人は車を呼び、そしてベッドに入った〉

 いかにも不条理です。このときはじめて、なぜ?という疑問が生じるというわけです。

 

格言を拒否するケース

 現実は格言に一致しないことが多く起こります。そして、「格言に一致しない」というそのことに「現実感」「ほんとうらしさ」を感じるケースも、いっぽうには存在しています。

 19世紀前半の小説家スタンダールの作品、たとえば『赤と黒』の主人公は、ある種の荒々しい行動に出ますが、『クレーヴの奥方』同様に、スタンダールはそこでは動機を説明しません。

 

 いまの僕たちは、スタンダールのこの、肝心なところで内面を書かない部分に、ある種の「説得力」を感じてしまいます。でも、ひょっとするとそれは、僕たちが、17世紀フランスの人と違って、

「人間とは割り切れないものである」

「人間の割り切れなさを書くのが、文学の仕事である」

という格言を持っている、ということなのかもしれません。

 だから、割り切れない行動をする登場人物が出てくると、「説得力」を感じるのです。

 古典主義時代の観客や読者から見たら、僕たちは「フィクションと現実の区別がついていない」ように見えるのでしょうか?

 

 スタンダールとほぼ同時代の小説家バルザックはその作品のなかで、スタンダール以上に数多く、荒々しい行動や激しい感情、また極端な忍耐力などの例を書いた人です。

 そしてスタンダールとは逆に、その登場人物たちの行動の動機を、逐一説明してしまいました。

 

 バルザックがやったことは、ジュネットが作った例で言うならば、

〈侯爵夫人は車を呼び、そしてベッドに入った。なぜなら、彼女はとても気まぐれだったから〉

という形になります。

 これであれば、なぜ? という問いへの答えが、本文中に明言されて、与えられています。

 

 さらには、こういう型もあります。ジュネットが作った例で言うならば、

〈侯爵夫人は車を呼び、そしてベッドに入った。なぜなら、侯爵夫人という人種の例に漏れず、彼女はとても気まぐれだったから〉

 こういう感じの物言いを、バルザックは作中でよくやっています。これは、

「すべての侯爵夫人は気まぐれである」

という格言を、いわば捏造してしまうというパターンです。

 そうすると、読者はまんまと、

「そうなのか、侯爵夫人ていう人種は気まぐれな傾向があるんだな」

と、乗せられてしまうかもしれません。公爵夫人に遭ったことが一度もなかったとしても。

 

 今回は小説や戯曲など、作り話の話が多くなってしまいました。ごめんなさい。

 次回以降はまた、私たちの現実把握の枠組としての「ストーリー」一般を視野に入れて、この「動機」の話をさらに進めようと思います。

 

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