僕たちは「心の理論」を持っている
前回見たとおり、オイディプスは知らずして父を殺し、母を娶(めと)りました。
人はこのストーリーを理解しようとするとき、
「登場人物たちがなにを知っているか、なにを知らないか」
を理解する必要があります。
つまり、他人が「誤った信念」を持つことを理解する能力を使って、ストーリーを理解しています。
この能力は「他人がどんな目的や信念を持ち、そんな推測をしているか」を推測する機能です。それを「心の理論」と呼んでいます。
「サリーとアンの課題」というのを聞いたことがあるかもしれません。
サリーとアンがいっしょに部屋で遊んでいました。サリーはボールをバスケットに入れて、部屋から出て行きました。ひとりっきりになったアンは、ボールをバスケットから出して箱に移します。
このあと部屋に戻ってきたサリーは、ボールで遊ぼうと考えて、どこを最初に探すでしょうか?
もちろんバスケットですよね。
しかし、これを3歳児に訊くと、「箱」と答えるケースがけっこう多いそうです。正答率は、4〜5歳でぐんと上昇するため、その時期に「心の理論」ができあがってくるのではないか、と言われています。その年齢を超えても、発達障碍があると正答率が下がるそうです。
登場人物の意図を忖度(そんたく)する
この連載の第2回では、人間は「なぜ」と問う動物である、という話をしましたね。世界にたいする「なぜ」(Why?)という問いと、それへの回答(原因や理由)とが、ストーリーのストーリーらしさを生む、という話でした。
そのとき、人間が知りたい答え(Because…)である「原因」のなかには、
「あの人があんなことを言ったのには、じつは深い考えがあったのではないか」
「最近この子が反撥してばかりだけど、ひょっとして反抗期?」
とか、そういった人間の行動の動機や理由、目的や意図も含まれる、と書きました。
登場人物の知識や信念だけでなく、目的や意図(これも「心の理論」にかかわる要素です)を読者がどう理解するかも、ストーリーの理解に影響します。
さらに「ある登場人物が他の登場人物の意図をどう理解しているか」を読者がどう理解しているか、これも大事です。僕らは簡単なストーリーを理解するためにも、じつはけっこうややこしいことをやっているのです。
ここでイソップ寓話「犬と鶏と狐」を参照してみましょう(バートラム・ブルースがアレンジしたヴァージョンを要約します)。
犬と鶏が森に行き、夜になったので鶏は木の枝にとまり、犬は木の下のうろで眠りました。
夜が明けると、鶏は「こけこっこー!」とときを作りました。それを聞きつけた狐が、こいつを食ってやろうとやって来て、木の下から呼びかけます。
「なんてすてきな鶏くんなんだ。ぼくんちで朝ごはんなんてどう?」
鶏が答えて言うには、
「うれしいね。友だちもいっしょに連れてっていいかな? 木の下のうろでまだ寝てるんだけど」
狐は木のうろに顔を突っこんで言いました。
「ぼくんちで朝ごはんなんてどう?」
すると犬が飛び出して、狐の鼻面に襲いかかったのでした。
ほんとうはややこしいイソップ寓話
なんということもないシンプルな話ですが、物語を読み終わって鶏の行動を理解したとき、読者は、以下の諸計画を理解しています(マリー=ロール・ライアンによる整理から簡略に紹介します)。
まず、このストーリーが雄鶏の目論見どおりに進行したということを、読者は理解しています。鶏は、最後のオチの部分まで予想済みで「友だちもいっしょに連れてっていいかな?」と発言したということです。このメインの計画のもとに、以下の下位計画群が作動しています。
下位計画1 鶏が狐の隠れた意図を見抜いているということを、読者は理解しています。狐が自分を騙して食べようとしていることを、鶏は知っています。
下位計画2 つぎに、鶏が騙されたふりをして狐を騙しているということを、読者は理解しています。鶏は、自分が狐の言うとおりに狐の家で朝食をともにする気があるように、見せかけているのです。
ここで〈友人〉という言いかたをすることで、木の下にいるのがもう1羽の鶏であると狐が勘違いするだろう、と鶏が考えていたことも、読者は理解しています。さきほどの「サリーとアンの課題」に正答できるような「心の理論」を持っているからです。
下位計画3 さらに、狐が〈友人〉も騙そうとするだろう、朝食の誘いをかけるだろう、ということを鶏が見抜いているということを、読者は理解しています。
下位計画4 おまけに、犬が狐に襲いかかるだろう、ということを鶏が見抜いているということを、読者は理解しています。
ストーリーは鶏の行動だけではできていません。狐がどういう意図を持っているかは〈こいつを食ってやろうとやって来て〉と明記してありますが、それだけでなく、狐が「鶏は俺に騙されてこう考えている」という「誤信念」を持っていることも、書かれていなくても読者は理解しています。
犬のことを言い出すと、さらに事態はややこしくなりますが、もうこのへんにしておきましょう。
鶏はほんとうに「騙されたふりをして騙した」のか?
読者は、鶏や狐や犬が「なぜ」そう行動したのかを理解するだけでなく、上記のように、「狐はこう言っているが、真意はこうだろう」と鶏がメタ水準で予測している、ということ、さらには「鶏はこう思っている」という狐によるメタ予測を鶏自身がメタメタ水準で予測している、ということも、書かれてなくても理解しています。
そう考えると、この物語自体がEテレ『ピタゴラスイッチ』のピタゴラ装置のように動く仕掛けのようにも感じられます。これをもっと複雑にすると、ある種の探偵小説のように、「事件が起こったら探偵はこのように考えて動くだろう」という予測を犯人が前もって立てて、自身の犯行計画のなかにそれを組みこみ、探偵が知らずして犯人の計画の一部を担ってしまう、というストーリーができあがるわけです。
ちなみにバートラム・ブルースによると、上のストーリーを読むかぎり、上記の解釈は唯一の正答ではありません。
幼い子どもたちに読ませると、
〈鶏はほんとうに犬と狐といっしょに食事をしたかったのだが、犬がその考えに反対しているということは知らなかった〉
という解釈が出たそうです。
これだと、上記の解釈よりはぐっとつまらない解釈になってしまうわけですが、ストーリーの本文を読んでも、この平板な解釈が「間違っている」という証拠を見つけることはできません。
登場人物(ここではたまたま動物でしたが)の内面という本文中の「空所」をどう埋めるかは、こんなシンプルな物語のばあいでさえ、現実の他人の内面同様に幅があるのです。いや、身振りや表情や間や声のトーンがなくて文字だけなので、かえって難しいかもしれない。なにしろ、
〈言葉によるメッセージよりも、それに対するコメントとして位置づけられる体感的なメッセージの方に、人はより大きな信頼を置く〉(ベイトソン「プリミティブな芸術の様式と優美と情報」佐藤良明訳)
のですから。
ちなみにイソップ寓話の原話には、つぎのような教訓が明記されています。
〈このように人間の場合でも、賢い人は災いが襲ってきても容易に対抗する、ということをこの話は説き明かしている〉(中務哲郎訳)
これだと、子どもたちの解釈は退けられてしまいます。
……と思いましたが、この教訓部分の〈賢い人〉が鶏をさしているのではなく犬をさしているのだ、と無理矢理解釈することもできてしまうかもしれませんね。
アリストテレスの4原因説
人間は「なぜ」と問う動物である。だから、人間は物語る動物である。
今回わかったのは、この「なぜ」にも、原因だけでなく動機や理由、目的など、いろいろある、ということです。
古代ギリシアの科学者で哲学者のアリストテレスは、『自然学』『形而上学』『分析論後書〔こうしょ〕』といった著作で、僕らが使う〈原因〉という語を、4つのケースに分けました。
(1)形相因……実体・本質としての原因。建物にとっての設計図というか、設計図を引くための建築家の着想のようなもの。「この建物はなにか?」にたいする答え。
(2)質量因……質料・基体としての原因。建物にとっての建材。「この建物はなにでできているか?」にたいする答え。
(3)動力因(作用因)……事態が変化してこうなった原因(この連載の用語で言えば、時間のなかで現状をもたらした、過去の原因)。建物にとっての建設工事。「この建物はだれがどうやって建てたか?」にたいする答え。
(4)目的因……目標としての原因(この連載の用語で言えば、時間のなかで現状をもたらした、未来の目標)。建物にとっての用途。「この建物はなんのために建てたか?」にたいする答え。
僕らが原因というときには(3)の動力因であることが多い。
〈「ビリヤード球Aが、ビリヤード球Bにぶつかって、Bをポケットに落とした」という言いかたには、問題はない〉(ベイトソン「自己なるもののサイバネティクス」佐藤良明訳)
というとおりです。
でも、たとえば自分がなにかをおこなう理由を、僕たちはきちんと知っているのでしょうか?
自己という仮の概念、目的という仮の概念
ベイトソンは、木こりが斧で木を切る行為を、つぎのように分析しています。
〈斧のそれぞれの一打ちは、前回斧が木につけた切り目によって制御されている。このプロセスの自己修正性(精神性)は、木─目─脳─筋─斧─打─木 のシステム全体によってもたらされる。このトータルなシステムこそが、内在的な精神の特性を持つのである。
ところが西洋の人間は一般に、木が倒されるシークェンスを、このようなものとは見ず、「自分が木を切った」と考える。そればかりか、〝自己〟という独立した行為者があって、それが独立した〝対象〟に、独立した〝目的〟を持った行為をなすのだと信じさえする〉(引用中の傍点部を太字強調に変えた)
ここでベイトソンは西洋とそれ以外の文化の違いについて言おうとしていますが、それはいまこの連載では大きな問題ではないので、〈西洋の〉の3文字はひとまず無視してください。
ストーリーというものはたいてい、こういった〝自己〟を抱えた行為項(agents、ざっくり言って登場人物)によって担われています。
人間は日常、ストーリー形式を理解の枠組として世界を認識しているので、〝自己〟や〝目的〟という概念を、なかなか疑うことができないのです。
ベイトソンがいうように、〝自己〟や〝目的〟という概念は、科学的に確定しえないかりそめの概念だというのに。
アリストテレスが述べた(4)の目的因もまた、人間に降りかかる問いです。
この連載の第3回、第4回で述べたように、人間は不本意な状況に置かれると、「なぜ?」と問います。
しかし、不本意な状況があまりに深刻だったり、あまりに長期化したりすると、
「なぜ生きてるんだろう?」
と問うてしまうようになります。
次回、最終回では、自分のライフストーリーにおいて目的因がどういう役を果たすか、ということを考えてみたいと思います。
(つづく)