人生につける薬

第2回 どこまでも、わけが知りたい
ストーリーの気分

物語は小説だけじゃない。私たちの周りにある、生きるために必要なもの。物語とは何だろうか?

「あなたは重病です。このままでは1年生きることができません」
「退職を勧告します」
「きみとやっていくのに疲れたんだ。別れよう」

もし、とつぜんこんなことを告げられたら、あなたが最初に口にする言葉はなんでしょうか?

「どうして?」

ではないでしょうか?

雨はなぜ降ったのか

まずはじめに、前回書いたなぞなぞを思い出してみましょう。

問1
 ある国の、ある村には、伝統的な雨乞いの踊りがある。
 それをやると100パーセント雨が降る、と村人は口を揃えて言う。
 さて、それはいったいどんな踊りか?

 正解がわかりましたか?
 正解は、

「雨が降るまで踊り続ける」

です。

 さて、村で起こったことは、このふたつのできごとです。
p : おまじないをした。
q : 雨が降った。
 時間の流れのなかで、pがqより以前に起こりました。これを

「おまじないをした。そのあと雨が降った」

と年表ふうに書けば前後関係が発生します。
 さて、これを

「おまじないをしたから、雨が降った」

というふうに、pが原因でqが結果であるというふうに解釈すると、両者のあいだに因果関係があるということになります。

 「原因」と言われるとつい、

「オゾン層の破壊は果たして地球温暖化の原因か」
「今年怪我してばかりなのは、なにかの祟りなのではないか」

といった外的(科学的、オカルト的)要因の影響力について考えてしまいます。
 でもそれだけじゃなくて、

「あの人があんなことを言ったのには、じつは深い考えがあったのではないか」
「最近この子が反撥してばかりだけど、ひょっとして反抗期?」

とか、そういった人間の行動の動機や理由も含めて、「原因」と考えてみましょう。

 p「おまじないをした」
 q「雨が降った」

 このふたつの命題は、ともに現実世界において目で確認できるできごとです。動画に撮ることもできます。
 いっぽう、「おまじないをしたから、雨が降った」の「から」は、原因・理由をあらわす接続助詞です。

 「から」は言葉でしか言えないもので、それに対応する実体が現実世界にはありません。
 目に見えず、動画にも写真にも撮れないし、絵にすることもできません。
 では、この「から」はどこにあるのでしょうか?

因果関係は認識者の思考にある

 それは、pとqとを認識する人(ここでは村人)の思考のなかに存在しています。
 いっぽう、なぞなぞを解く僕たちの思考のなかには存在していません。
 つまり、因果関係とは「観察者にとっての」因果関係なのです。

 こう言うと、反論したくなる人がいるのではないでしょうか?
 科学的思考を持っているわれわれ文明人は、踊りではなく気圧配置や湿度といった気象学的条件が雨の原因だとわかっている。因果関係は頭のなかではなく、じっさいに存在するのだ。村人はたんに、因果関係を間違って認識しているだけなのだ──。

 「原因とはなにか」ということについて、この場で踏みこむことはできません。それはこの連載の射程を超えた問題です。
 ここではとりあえず、生物学者・池田清彦さんの
〈この世界は因果律的にできていない〉
という言葉を紹介しておくにとどめます(『科学とオカルト』第5章)。

〈科学における因果関係と称するものは、ほとんどは時間のずれを伴った対応関係なのである〉(同第4章)。
〈元来科学は対応関係を解明しているので、因果関係を解明しているわけではない〉(同第5章)。

 因果関係をどう見つけるか、ということは、文化によって、文脈によって、発話のジャンルによって、異なることがあります。

 p「おまじないをした」
 q「雨が降った」

 というできごとが時間順に置かれているとき、pとqとを因果関係に置く村人にとって、雨が降らないうちに踊りをやめてしまうということは、
「踊り続ける根性が足りないから、雨が降らない」
ということになるわけですね。

 いっぽうpとqとを因果関係に置かない私たちにとって、pとqとのあいだにはただ、時間上の前後関係しかありません。
 では、私たち現代の日本人は、自然科学に矛盾するような因果的説明をしないのでしょうか?

ジンクスと縁起担ぎ

 小説家の小川洋子さんは親の代からの阪神タイガースファンです。弟さんも熱心なファンで、子どものころ、家族4人でナイター中継を見ていて、

〈正座しているときに田淵が逆転ホームランを打ったりすると、彼はその運が逃げないようにずっと正座している。ピンチになると、「さっき田淵がホームランを打った時の姿勢になって!」と、みんなに命令する〉(「家族団欒の図」)

 こういったジンクスや縁起担ぎはライトな「おまじない」です。
 日本ではかなり多くの人が、神社に行っておみくじを引いたりお守りを買ったりします。それは、自分の生活をひとつのストーリーとみなして、ひとつの説明体系のなかに置く、ということです。

 もちろん、初詣と夏祭のときだけ神社に行くくらいの日本人と、たとえば一神教の原理主義者とでは、説明体系とのつきあいかたはずいぶん異なっています。

前後関係+因果関係=筋(プロット)

 人間は、できごとを時間の流れのなかで把握する枠組を持っています。それが「ストーリー」と呼ばれるものです。
 時間上の前後関係のなかでできごとを報告するだけで、いちおう「ストーリー」にはなります。歴史年表や、履歴書の学歴・職歴欄を思い出してください。

 1911年 辛亥革命。
 1917年 ロシア革命。
 1920年 国際連盟成立。
 1928年 張作霖爆殺。
 1929年 世界恐慌。
 1931年 柳条湖事件、満州事変。
 1932年 満州国建国。5.15事件。
 1933年 日本、国際連盟脱退。
 1936年 2.26事件。日独防共協定締結。

 平成XX年3月 XX高等学校卒業
     4月 XX大学XX学部入学。
 平成XX年3月 同大学卒業。
     4月 XX株式会社入社。

 けれど、年表や履歴書は、ストーリーとしてはいまひとつ「滑らかさ」「生きている感じ」に欠けますね。
 では、年表や履歴書は、小説や新聞記事といったもっと「ストーリーらしい」文章と、どう違うのでしょうか?

 年表や履歴書に因果関係を加えれば、新聞記事のように、もっと「ストーリー」らしく見えるでしょう。
 「なぜ日本は国際連盟を脱退したのか」「なぜ私はXX大学に入学したのか」。こういったことは、年表や履歴書には書かれません。新聞記事では理由が問われ、小説や物語では理由が明かされます。
 世界にたいする「なぜ」という問いと、それへの回答(原因や理由)とが、ストーリーのストーリーらしさを生むのです。

 いまここで「物語」という言葉を使いました。「物語」(ナラティヴ)とは、ストーリーを(口頭で、手話で、文字で)語る言葉の集まりです。
(ほんとうは言葉だけではなく、いろんな要素がストーリーを伝えるのに使われるのですが、もっとも基本的で大事な役割を果たすのは、言葉だと考えます)
 ニュースを読むアナウンサーの言葉、落語を話す落語家の言葉、新聞記事や小説の字面は、いずれもストーリーを伝えているという意味で、物語なのです。

フォースターの言う「ストーリーvs.プロット」

 英国の小説家エドワード・M・フォースターは〈ストーリー〉(物語内容)と〈プロット〉(筋)という語の違いを強調しました。
 フォースターによれば、ストーリーはできごとを時間順に叙述するものです。先に挙げた年表や履歴書みたいなものです。
 いっぽうフォースターによれば、プロットと呼ぶためには因果関係が必要なのだそうです。
 フォースターは具体的な例を作り出しました。

〈王が死んで、それから女王が死んだ〉

はひとつの〈ストーリー〉だが、

〈王が死んで、それから女王が悲しみのあまり死んだ〉

はひとつの〈プロット〉だというのです。

 〈悲しみのあまり〉のたぐいの言葉は、年表や履歴書には存在しません。
 ふたつのできごとのあいだの因果関係が読み取れると、物語として滑らかになります。これが「物語らしさ」というものです。

嘘でもいいから説明がほしい脳

 因果関係が明示されると、なぜ物語として滑らかな感じがするのでしょうか?
 それは、できごとが「わかる」気がするからです。どうやら私たちは、できごとの因果関係を「わかりたい」らしいのです。

 「わかる」と書きましたが、それは必ずしも
「自然科学の学説に合致するように認識する」
という意味ではありません。
 村人たちは、
「おまじないをしたから、雨が降った」
というふうに、一連の事態を把握して(わかって)いる。村人はふたつのできごとを組み合わせて、因果関係を補ってしまうのです。

 人間とは、世のなかのできごとの原因や他人の言動の理由がわからないと、落ち着かない生きもののようです。
 認知神経科学者のマイケル・S・ガザニガによると、人間の脳の左半球では解釈機能(インタープリター)が働いています。

〈左脳で行われるインタープリターのプロセスの背景には、起こったことの説明や原因を知りたいという衝動がある。このプロセスはどんな状況でも機能している〉(『〈わたし〉はどこにあるのか ガザニガ脳科学講義』藤井留美訳)

 そしてこの左脳のインタープリターがでっち上げる説明は、一貫性はあっても、明らかに間違っていることがあるのです。
 人間は、どうしても「わけ」がほしいのです。

 刑事裁判では行動の動機を追及します。そうしないと、量刑できないのです。
 探偵小説の眼目には、「だれが犯人か」(フーダニット)、「犯行の方法はなにか」(ハウダニット)と並んで、「犯行の動機はなにか」(ホワイダニット)というものもあります。

 「わけ」があると、ストーリーが滑らかに感じられ、「わかった」という感情がめばえるのです。
 ストーリーにとって、この「わけ」を知るということがどれくらい大事か、ということについて、さらに踏みこんでみましょう。

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