〈謎〉とはなにか?
前回、このような引用をしました。
〈フランスでは、人気の出る小説は宗教・性・貴族社会・謎という内容物を含むものだという公式があるという〔……〕。この公式に従うなら、報告価値がもっとも高い小説とは、
「『ああ神さま』と侯爵夫人は言った。『私は妊娠してしまいました。そしてだれの子かわかりません』
というものとなる〉
(マリー=ロール・ライアン『可能世界・人工知能・物語理論』拙訳。引用者の責任で改行を追加)
4つの構成要素のうち、宗教(〈ああ神さま〉)、性(〈私は妊娠してしまいました〉)、貴族社会(〈と侯爵夫人は言った〉)の3つは、ストーリーに登場する「題材」です。
しかし〈謎〉(〈そしてだれの子かわかりません〉)は、謎というモノや概念が登場することではありません。
そうではなく、ストーリーのなかに、明らかでない部分がある、というのが〈謎〉です。
いや、たんに「明らかでない部分がある」だけでは、〈謎〉は成立しません。
ここのところを考えるには、「知らない」とはどういうことか、について考える必要があります。
オイディプス、国を出る
テバイ王ライオスという人がギリシア神話に出てきます。古代の悲劇作家ソポクレスの『オイディプス王』のもととなった神話です。
ライオスは、
「生まれた息子が父を殺し、母を娶(めと)るであろう」
という神託を受けました。そこで、予言の成就を避けるため、生まれて間もない息子を山のなかに捨てさせます。
その男の子は運よく拾われ、コリントスの王の養子オイディプスとして育ちました。彼は、両親を自分の生物学上の親だと信じていました。
けれど彼は知勇・武芸に秀でていたため、あるときやっかんだ他の若者が宴席で、
「お前なんかどうせ拾われた子だろう」
と悪口を言いました。
悪口を言った者が、真相を知っていたのでしょうか?
それともただ出鱈目に悪口を言って、それがたまたま図星だったのでしょうか?
それは、神話からはわかりません。どちらにしても意地悪な人ですね。
オイディプスは悩み、アポロン神に、自分はほんとうに両親(コリントス王夫妻)の子なのか、と尋ねました。
神託はそれには答えず、ただ
「お前は父を殺し、母を娶るであろう」
と告げたのです。
酒席で悪口を言った若者より、アポロン神のほうがもっと意地悪です。人が真剣に質問してるのに……。
オイディプスは自分を育てたコリントス王夫妻以外に親と呼べる人を知りません。だから神託に出てくる「父」「母」をコリントス王夫妻と考えました。
そこで予言の成就を避けるため自国を去り、テバイへと逃げます。そここそが自分の故国であるということを「知らない」ままに。
オイディプス、謎を解く
その途中で、ふたつのできごとが起こります。
ひとつは、ある人の一行と諍いを起こし、彼らを殺害してしまったこと。
もうひとつは、怪物スピンクスが出す〈謎〉(なぞなぞ)に答えて、この怪物を退治したことです。
スピンクスは旅人が通りかかると、
「朝は4本脚、昼は2本脚、夜は3本脚、これはなにか?」
という問を出し、旅人が
「朝は4本、昼は2本、夜は3本、……田舎の時刻表か?」
などと考えているうちにこれを喰い殺し、テバイに災厄をもたらしていました。
それをオイディプスに
「答は人間である。幼年期は『はいはい』し、成長して二足歩行、老いては杖をつく」
と即答され、高みから身を投げて死んだのです。
オイディプスが訪れたテバイは、王がなにものかに殺されて混乱しています。オイディプスは怪物スピンクスを倒しテバイを救った人物ですから、空位だった王位につきました。そして前王ライオスの妃イオカステを、実母と知らぬまま娶り、子をなしました。
やがて、テバイに来る途中に殺した一行のひとりが、ほかでもない前王ライオスだったこと、そしてそれが実父だったことを知る日が来るのです。
登場人物はなにを知らなかったか
このストーリーは、だれにでも理解できるものです。しかし、そのとき読者、聴き手あるいは観客は、
「オイディプスはライオスとイオカステとの子である」
というストーリーの内容を理解しているだけではありません。
「登場人物がなにを知らなかったか」
を、逐一理解しているのです。
具体的には、読者であるあなたは、以上の話を読んだときに、下記のことを理解していました。
(1) コリントスを出ようとしたとき、オイディプスは、両親が自分の生物学上の両親ではないということを知らなかったということ。
(2) 山中でもめたとき、オイディプスとライオスは、自分たちが生物学上の親子だということを知らなかったということ。
(3) テバイで結婚したとき、オイディプスとイオカステは、自分たちが生物学上の親子だということを知らなかったということ。
つまりあなたは、作中世界だけでなく、何人かの登場人物の〈知識世界〉も理解したから、上記のオイディプス物語を理解できたわけです。
そして登場人物の〈知識世界〉は、作中世界の実情と一致することもあれば、上記の登場人物たちのように、一致しないこともあります。
問を胸に抱くということ
登場人物が知らなかったことを、上記のように(1)から(3)まで並べてみましたが、じつは(1)と、(2)(3)のあいだには、大きな違いがあります。わかりやすくするために、オイディプスを主語にして比べてみます。
(1) オイディプスは、両親が自分の生物学上の両親ではないということを知らなかった。
(2a) オイディプスは、諍いの相手が自分の生物学上の父だということを知らなかった。
(3a) オイディプスは、結婚の相手が自分の生物学上の母だということを知らなかった。
先述のように、オイディプスは
「自分はほんとうに両親の子なのか」
という問いを、少なくとも一度は胸に抱いたわけです。
これはたとえばスピンクスにクイズを出されたときと、ある意味似ています(違うのは、両親にかんする問はYes or Noで答えるタイプの問だということ)。
問を問として意識していた点で、両親のことで思い悩んでいたオイディプスは、
「お腹の子の父親はあの人かしら、それともあの人かしら、あるいは……」
と迷っている侯爵夫人と同じなのです。
「知らない」のふたつの様態
いっぽう(2a)(3a)のオイディプスは、諍いや結婚の相手が自分の生物学上の親であることを知らないだけでなく、そもそも「この相手は自分の親だろうか?」という問自体を胸に抱いていません。それは親たちのほうもそうです。
言ってみれば、
(1)は警察が殺人事件の犯人をまだ割り出していない状態
(2)と(3)は事件は起こっているもののまだ通報されていないので事件の存在自体を警察が認知していない状態
ということになります。
(1)では主人公には
「両親が自分の生物学上の親かどうか」
という問が見えている。それによって主人公の知識世界のなかに空白(「両親が自分の生物学上の親である」「ではない」のいずれか不定の状態)ができている。自分の知識がどこで欠けているかを知っている状態が、つまり〈謎〉なのです(もっともオイディプスは証拠不充分なまま、両親を生物学上の親だ「ということにして」行動してしまいますが……)。
いっぽう(2)(3)は「相手は自分の生物学上の親である」という命題が視界の「外」にあるため、
「相手が自分の生物学上の親かどうか」
という問自体がそもそも立ち上がらない。〈謎〉ですらない。
このずいぶん違うふたつを、言葉のうえではともに「知らない」状態と呼んでいるわけです。
(2)(3)は、知らないだけでなく、
「自分がそれを知らないということ」
も知らない。三人称的に
「あー、あいつわかってねえなー」
と、他人が観測することしかできない。
世のなかというのは、(2)(3)みたいなことばかりです。
問すら立てることができない対象
(1)の「知らないこと」は、問を立てた結果「知らないこと」となったわけです。
いっぽう(2)(3)の「知らないこと」はそもそも、こちらの意思で問を立てること自体ができない。問を立てた瞬間、(1)の「知らないこと」にスライドしてしまいます。
たとえば、シャーロック・ホームズの髪の毛は何本でしょうか?
『吾輩は猫である』の〈吾輩〉の体毛の本数は何本でしょうか?
この問を読んで、
「そうそう、私もそれ気になってたんだよね」
と思う人はあまりいないと思います。
つまりあなたにとってホームズの髪の本数は、この問を目にする直前まで、(2)(3)の意味で「知らないこと」(自分がそれを知らないということすら知らないこと)だったのです。
そしてこの問を目にしてしまったいまとなってはもう、(1)の意味で「知らないこと」(自分がそれを知らないということは知っていること)になってしまいました。
言葉で記述された世界のなかには、発話者・作者も正解を持たない部分があります。
夏目漱石だって、〈吾輩〉の体毛の本数は
「偶数か奇数のどちらかであるはず」
としか言いようがありません。
なぜ手術できないのか
スピンクスのなぞなぞの話が出たので、この連載の第1回に出したふたつのなぞなぞのうち、問2のほうを思い出してみましょう。
ある男がその息子を乗せて車を運転していた。すると、車はダンプカーと激突して大破した。
救急車で搬送中に、運転していた父親は死亡し、息子は意識不明の重体。
救急病院の手術室で、運びこまれてきた後者の顔を見た外科医は息を呑んで、つぎのような意味のことを口にした。
「自分はこの手術はできない、なぜならこの怪我人は自分の息子だから」
これはいったいどういうことか?
たいへん有名ななぞなぞです。また、この連載をお読みくださっているかたなら、「物語」とか「言葉」に興味がおありでしょうから、あるいは簡単に解けたかもしれません。
でも、僕は人前で「物語」について話をするときには、よくこのなぞなぞを出すのですが、即座に答えに行き着く人は少数派でした。
即答できなかった人たちが、世の中に「女医」というものが存在するということを、知らないわけではありません。
外科医というのは医師のなかでもとりわけ、男性のイメージを強くまとっている部門かもしれません。そうは言っても手塚治虫の『ブラック・ジャック』に〈ブラック・クィーン〉と渾名される凄腕の女性外科医が登場してから、かれこれ40年ほど経ちます。
なぞなぞの文面には、外科医の性別や名前が明示されていませんでした。
(それを言うなら年齢や身長、髪の色や本数、靴のサイズに血液型、勤務先名、年収、マイナンバー、未婚既婚の別も、いっさい明示されません。卑怯ですね!)
そして、答えられなかった人は、外科医の性別欄を自動的に埋めてしまい、しかも自分でそのことに気づかないのです。
ストーリーを言葉で物語るとき、その本文はじつは、ホームズの髪の本数や外科医の性別のような「空所」だらけなのです。
それでも人間はその本文を読み解いて、自分なりにストーリーを再構成することができます。そのとき、僕らは手持ちの解釈格子を使っています。
「自分がそれを知らないということ」を自発的に知ることは可能か
人は「自分がなにを知らないか」を知らないで、それでも生きていくことができます。
「お前はそれを知らないのだ」と、人や状況に教えてもらわなければ、「自分はそれを知らない」ということを知ることすら叶わない。
そして厄介なことに、「自分がなにを知らないか」を教えてくれるのはときとして、
「お前なんかどうせ拾われた子だろう」
なんていう「心ない」言葉だったりするのです。
というか、状況がこじれるのはしばしば、知りたくないことを告げる言葉を「悪意からの言葉」というふうに意味づけてしまったり、逆に、自分のためにならない言葉を「良かれと思って言ってくれてるのだろう」と解釈してしまったりするときなのですよね。
「自分がなにを知らないか」を、前もって知ることは、とても難しいことです。