不本意な状態は物語の出発点である
ストーリーと「平常」「非常」
僕はこの連載の第7回で、ストーリー的な解釈によって非常時を切り抜け、失われた平常を取り戻したいという感情を、感情のホメオスタシスと名づけました。
しかし、ここで多少の表現の修正・拡大が必要になります。
このホメオスタシスは、必ずしも〈失われた平常〉そのものを取り戻したいわけではない。
「シンデレラ」のストーリーにおいては、シンデレラが舞踏会という非日常を経たあと、継母にこき使われるもとの日常に戻ることが期待されているわけではありません。
そうではなく、主人公が王子と結婚して「末永く幸せに暮らしました」という平衡状態に着地することが期待されているのです。
平衡状態とは、これ以上特筆すべき要素がない状態、つまり、それ以上ストーリーとして新しいものをつけ加える必要がないと感じられる状態というふうに考えてください。
「シンデレラ」のばあい、冒頭でヒロインが置かれた状態は、日常ではありますが、「幸福の欠如」という状態になっています。第12回で述べたとおり、不本意な状態はストーリーの出発点です。
ですから、目指して獲得した平衡状態が〈失われた平常〉を取り戻すことになることもあれば(例 : トールキンの『ホビットの冒険』)、新しい(そしてより安定した)ライフステージへの移行になることもあるわけです(例 : 「シンデレラ」)。
いずれにせよ、人間は、ストーリーを途中まで聞いた段階で、最終的にそのできごとが解消し、そのストーリーの世界でそれ以上特筆すべき要素のない平衡状態に着地することを、感情的に期待してしまいます。しようと思わなくても、その後のストーリー展開の弾道を計算してしまう(しようと思わなくても、してしまうのです)。
広い見地から言えば、特筆すべき要素のない平衡状態は、必ずしもハッピーエンドである必要はありません。最後に「そしてだれもいなくなっ」てもいいし、「人類はこうして滅亡しました。おしまい」で終わっても、ストーリーが完結したことを感情的に納得することができます。
英国の小説家E・M・フォースターは講義録『小説の諸相』のなかで、作者が主人公を死なせるか結婚させるかすれば、ああ、この小説はそろそろ終わるんだな、と読者も納得しようとする、といったことを書いています。
(もちろんフォースター以前、19世紀にはすでに、結婚のあとにも人生の時間が続いていくのだ、という視点の小説が書かれるようになっていて、それがまたひとつのストーリーの型を作っていたのですが、フォースターはそんなこと承知で上記のことを述べているのです)
「できごと」と「状態」
ストーリーを言葉で表現する(物語る)とき、物語を構成する言葉には、どのような形が見られるでしょうか。「桃太郎」の冒頭を見てみましょう。
(1)むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。
(2)ある日、おじいさんは山へ芝刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行きました。
(3)おばあさんが洗濯していると、川上から大きな桃が、どんぶらこ、どんぶらこ、と流れてきました。
(1)は「××している」(住んでいました)という形からわかるように、特定の「状態」をあらわしています。
(2)と(3)はそれにたいして、ある一日のなかの「できごと」を報告しています。
「状態」は静止していますが、「できごと」は、それが「起こる前」と「起こったあと」とに、時間を分割します。「できごと」とは、「状態」の変化なのです。
このうち(2)は、前後の文脈を考慮すると、日常的に繰り返される「できごと」を報告していると判断されます。つまり、「いつものように」おじいさんは山へ芝刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行ったのだろうと推測されます。
ちなみに、(2)が日常的に繰り返される「できごと」を報告しているという証拠は、じつは文面のなかにはありません。
しかし、「その日、おじいさんとおばあさんが一緒に住むようになって初めて、芝刈り・洗濯に行った」と解釈されることは、考えられません。日本人が持っているスキーマ(一般的な概念の枠組として働くデータ構造)では、「洗濯」とはそういうものではないからです。
いっぽう(3)は、この日限りの一回性のできごと、あるいは少なくとも、日常的に起こるわけではないできごと、とりわけ報告に値するできごとを記述しています。
つまり、
(1)は状態、(2)(3)はできごと
を記述していますが、そのいっぽうで、ストーリーのなかで
(1)(2)は「地」、(3)は「図」
を記述しているということになります。
(3)のように、非日常的なできごとは報告される価値(narrativity)が高いとされ、実際、優先的に報告されます。それは新聞やTVやネットの重要なコンテンツである「ニュース」のことを考えればわかると思います。
日常的なできごと
では、日常的なできごとは、報告される価値がないのでしょうか?
たしかに、木から葉っぱが一枚落ちた、という程度のできごとだったら、通常は、ストーリーのなかで省略されてしまいます。
けれど、もし主人公が、木から葉が一枚落ちたのを見て、それで重力の法則を発見してしまったらどうでしょうか?
また、O・ヘンリーの『最後の一葉』の、「もしあの木の最後の一枚の葉が落ちたら、私は死ぬんだ」と思っている人物にとっては、その一枚が落ちるかどうかというのは重大事です(マリー = ロール・ライアンの『可能世界・人工知能・物語理論』に挙げられている例がわかりやすいので、流用させてもらいました)。
つまり、どのできごとに報告される価値があるか、ということは、どのようなストーリーであるかによっても決まるのです。
たとえ木から葉っぱが一枚落ちた程度の出来事でも、筋(プロット)の中で機能を果たしていたら、省略することができないのです。
「状態」と「括復法」の機能は似ている
また、「状態」も、ストーリーを推進させるのに役立つことがあります。旧約聖書『サムエル記』下巻第14章第25-26節を見てみましょう(これもライアンが挙げている例です)。イスラエル王である父ダヴィデに二度にわたって叛旗を翻し、二度目は一時的に政権を奪取する、アブサロムという人物の姿を記述する部分。
〈25 イスラエルの中でアブサロムほど、その美しさをたたえられた男はなかった。足の裏から頭のてっぺんまで、非のうちどころがなかった。
26 毎年の終わりに髪を刈ることにしていたが、それは髪が重くなりすぎるからで、刈り落とした毛は王の重りで二百シェケルもあった〉(新共同訳。引用者の責任で改行を加えた)
第25節は「状態」です。「桃太郎」の(1)に相当します。
いっぽう第26節は〈毎年〉繰り返される「できごと」を記述しています。「桃太郎」の(2)に似ていますね。でも、少し形が違います。
「桃太郎」の(2)は、「その日一度起こったこと」を記述して、意味内容から「おそらく習慣的なできごとであろう」と推測させるものでした。
これにたいして『サムエル記』下巻第26節は、〈毎年〉という言葉がはいっていることからわかるように、何回も起こったできごとを一括して報告しています。
「オリンピックは4年に1度おこなわれてきたが、政治的事情で開催されなかったことも何度かあった」
「駅前のコーヒー店で豆を買うことはめったにない」(=過去に少なくとも1回はあった)
〈2016年10月からは従来での木曜ネオバラ枠での放送を継続したまま、日曜日18:57-19:58にも『日曜もアメトーーク!』として放送され、週2回放送となる予定〉(Wikipedia「雨上がり決死隊のトーク番組アメトーーク!」。太字強調は引用者)
といったような、何回も起こったできごとを一括して報告する物語言説を、フランスの文学理論家ジェラール・ジュネットは「括復法」と呼んでいます。
「括復法」では「毎週」「4年ごとに」といったサイクルを示したり、「何度か」「しょっちゅう」「めったに……ない」「ふだんは」などの量化子(quantifier)を使ったりして、時間のなかの複数のケースの存在を一括して示唆するものです。
「括復法」は、「できごと」を記述しているのに、「状態」の記述に似ています。筋(プロット)を先に進めないのです。
「状態」の記述(第25節)と「括復法」(第26節)とが、似たような機能を持っていることに気づきますね?
どちらも、「アブサロムがどういう人物であるか」を記述しているのです。
描写が筋(プロット)に喰いこむケース
第25節のようなものは「描写」と呼ばれます。第26節のような例示も、「人物描写」などと呼ばれることがあります。
描写は、あってもなくても、筋(プロット)に関係ないことが多いので、物語を要約するときにはしばしば省略されます。
けれど、第26節の情報(アブサロムは年に1度だけ髪を刈る→ふだんは長髪である)は省略できません。
というのも、アブサロムは父王の反撃にあって敗走している途中の森で、低く延びた枝に自慢の長髪が絡まり、宙吊りになったところを敵兵に発見され、殺されてしまうのです。
ストーリーは「できごと」の時間順の連鎖で、年表のようなものですが、筋(プロット)はこのように、「できごと」や、ときには「状態」に、それぞれの機能を割り振って、有機的に自己形成した姿(パターン)として、物語(ナラティヴ)の読者・聴き手の前で読みとられていくのです。