人生につける薬

第9回
不幸なできごとには必ず「悪い原因」があるのか?

物語は小説だけじゃない。私たちの周りにある、生きるために必要なもの。物語とは何だろうか?

ストーリーと「べき」の感情的な関係 

 人間に義務の遂行を要求してしまう道徳感情には、どのような人間学的な、そして物語論的な問題が潜んでいるでしょうか。

 ここからは、ストーリーと「べき」の非常に感情的な関係について考えます。

 

応援するキャラクター、そして「ざまあ見ろ」

 僕はアクション映画が大好きです。

 そもそも5月に、英国のTVドラマ「ダウントン・アビー」シーズン5と6の放送を見たくてスターチャンネルに登録したのですが、「マッドマックス」「ミッション・インポッシブル」「エクスペンダブルズ」などの僕の大好きなシリーズが一挙に放送されていました。 お気に入りの「キングズメン」もやっていました。

 

 それ以外にも、劇場で見逃したアクション映画が、「スパイ・レジェンド」とか「イコライザー」とか山ほど放送されていたので、毎日のようになんらかのアクション映画を見て過ごしています。

 仕事にならん!

 アクション映画というのは、基本的には勧善懲悪です。いや正確には、善悪は後づけで、主役に敵対するヤツをとにかく倒す、というシンプルな意味づけのストーリーになっています。

 主役(ヒーローやヒロイン)を応援し、主役が敵を倒すと、スッキリ爽快な気分になります。言葉で言うと「ざまあ見ろ」。

 「ざまあ見ろ」があることで、アクション映画のストーリーは構築されます。

 「シンデレラ」や「舌切り雀」「こぶとり爺さん」などの昔話で、継母や姉たち、欲深い隣人たちに罰が下るのと同じです。

 敵は道徳的に劣る者として描かれるので、ということは、人間は、道徳的に劣る者を憎む、あるいは少なくとも好まない、という傾向があるのでしょう。

 週刊誌が政治家のお金の使い方のまずいところをすっぱ抜いたり、芸能人がSNSで失言をしたりすると、それを強く非難する人が出てくるのも、
 「悪いやつをやっつける」
 という気分が「快」となるように人間はプログラムされているからでしょう。

 「悪い奴」が滅びるところを見たり、実際に自分でそういう対象に罵りの言葉を投げつけたりするとき、人間は、ドラッグの摂取と同様の快感を味わっているはずです。

 「悪い奴」をこらしめる快感は、明らかに中毒性を持っています。

 

「公正世界」という誤謬

 また人間は、因果応報という道徳的な収支決算の合った世界を夢想し、世界はそのように公正である「べき」だ(must)、さらにはそうある「はず」だ(must)と思っています。

 (ここで僕は「因果応報」というタームを、必ずしも仏教的に厳密な意味で使っているわけではありません)

 正しい行為はすべて報われ、道徳的に間違った行為はすべて罰せられるはずだ、というのが、人間の認知バイアス(思考の癖)の一種だ、という説もあります。

 これを「公正世界」の誤謬(あるいは「公正世界」の仮説)と呼びます。

 誤謬とはいうものの、この認知バイアスには、悪くない副作用もあります。

 こうすればいずれ先々よいことがあるとか、このように行動すると悪いことがある(罰が当たる)とかいった行動の規範を持つことによって、人間は自分の未来を自分で作っていく、つまり胸を張って生きていくことができます。

 努力しても報われるかどうかわからないと思っているよりは、自分の努力はきっと報われると思っているほうが、がんばりが効く、というケースもあるわけです(個人的には僕はそうは思わないのですが)。

 

「公正世界」の誤謬の深甚な副作用

 もちろん、困った副作用もある。

 「公正世界」は「善因善果・悪因悪果」(これもここでは仏教的な意味合いをつけずに使用しています)という世界です。そこに、「悪い結果」が与えられたばあい、「これにはきっと悪い原因があるに違いない」というふうに、結果から原因をさかのぼって、勝手な空想をしてしまうのです。

 たとえば、2011年3月の東日本大震災のさい、福島の原子力発電所を破壊した津波について、当時東京都知事だった石原慎太郎さんが、
 〈これはやっぱり天罰だと思う〉
 と述べました。
 石原さんは、津波にたいして、きわめてストーリー的な意味づけをしてみせたわけです。

 津波は津波であり、それを日本人の「悪」という原因から起こった「悪い結果」である、というふうに意味づけてしまうのは、この連載でたびたび指摘してきた「因果関係への落としこみ」の典型例です。

 ロジックとしては、ヒンドゥー教の輪廻転生観における、
 「前世で悪業を積んだゆえに今生はカーストが低い」
 とか、いまだったら、
 「露出の多い服を着ていたから痴漢に襲われるのだ」
 とか、そういった被害者を責める言説の一種です。

 

他責も自責も、根っこの仕組は同じ

 他責的になるだけでなく、自責的にもなります。他責も自責も、根っこの仕組は同じです。

 2015年の夏休みに、夜遊びしていた寝屋川の中学生ふたりが殺害されたとき、
 「子どもが夜遊びしているのが悪い」
 「子供に夜遊びさせている親が悪い」
 といったことを言う人がいただけではなく、ふだんその周辺を見回っていたボランティアの初老の男性がニュースで、
 「こういうことがないようにとふだんから気をつけていたのに、防げなかった」
 と自分を責めていました。

 気持ちは分かりますが、このような自責は役に立たないだけではなく、非常に不健康な感情だと思います。

 地震や津波それ自体は、だれかが悪いことをした結果なんかではありません。

 そうなると、地震や津波を想定していなかった原子力発電所の設計という「人為」を、人は責めたくなってしまうのです。

 では僕たち日本人は、
 「自分たちは悪くない! 悪いのは原子力政策だ!」
 と言い張ればよいのでしょうか?

 これはあくまで僕の個人的な意見ですが、原子力政策を簡単に悪者にしてしまうのもまた、感情的なストーリー化であり、石原さんの意味づけと五十歩百歩のような気がします。

 (こう書くと僕が原発推進派だと思う人がいるかもしれませんが、それもまた性急な結論ですよ)

 地震と津波、そしてそれによって引き起こされた原子力発電所の事故は、確かに「不幸なできごと」です。

 それをそのまま生(き)の状態でじっと見つめることは、必ずしも簡単なことではありません。

 そこで、ただの「不幸なできごと」だと耐えられないので、「悪い結果」としてこれをとらえなおし、それにふさわしい「悪い原因」を見つけてしまう。

 日本人が悪かったからだ、という石原さんのストーリーも、原子力発電が悪かったからだ、というもうひとつのストーリーも、主張内容はバラバラですが、その感情面でのメカニズムにはよく似ているところがあるのです。

 

不幸なできごとは、世界観の矛盾を呼び起こすことがある

 突然古代史の話になりますが、紀元前8世紀後半に、イスラエル王国(ユダヤ北王国)が、アッシリアによって滅ぼされました。

 当時のユダヤ人は、北王国(イスラエル)と南王国(ユダ)というふたつの国に住んでいました。いずれの国も、ヤハウェという神さまを崇拝していました。

 この神はいまとなっては、ユダヤ教でもキリスト教でも、世界を創造した「唯一神」ということになっていますが、当時はまだ、豊かな収穫をもたらしてくれたり、戦争で勝たせてくれたりする、いわゆる「ご利益」のある神さまという扱いだったといいます。

 「ヤハウェはご利益のある神さまである」、だから「ヤハウェを崇拝する王国は安泰である」、と考えていたわけです。

 ところが、イスラエル王国は、アッシリアによって滅ぼされてしまった。

 この「不幸なできごと」は、先立つ「ヤハウェはご利益のある神さまである」という命題と、矛盾をきたしてしまいます。

 こういう矛盾は、気持ち悪い。世界観の収支決算が合わない。

 収支決算をなんとか合わせなければならない。では、どうやって辻褄を合わせるか。

 僕みたいなベッタベタの日本人だったなら、
 「こっちの神社にはご利益がないから、あっちの神社にチェンジしよう」
 と、違う神さまにあっさり乗り換えることで、世界観の収支決算を合わせたところでしょう。

 

「悪い原因」を見つけると、ストーリーはいちおうつながる

 しかし古代ユダヤ人は、そうはしませんでした。

 「イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされたのは、イスラエル王国の民がヤハウェをちゃんと崇拝していなかったからだ」
 というふうに「悪い原因」を見つけ、ストーリーを繋げて、世界観の収支決算を合わせたのです。

 すごいロジック! 僕とはまったく違うストーリーのつなげかたをしています。

 たしかに、ちゃんと崇拝していなかったのなら、神さまだってご利益を恵んであげる筋合いはないでしょう。

 ここで思い出すのは、親に虐待された子どもたちの話です。

 人間の子どもは、生まれてからかなりの年数、大人の保護がなければ生きていけません。子どもにとって親とは、それ以外にすがるもののない存在なのです。

 幼いころに親に虐待された子供のなかには、「親は間違っていない」という命題(「親の無謬性」という誤謬)を守るために、
 「こんなにひどい目に会うのだから、自分はそれにふさわしい悪い子なのだろう」
 と「悪い原因」を考えつくことによって矛盾を回避し、ストーリーを繋げ、世界観の収支決算を合わせるケースがあると聞きました。

 「唯一神」が「天にましますわれらの『父』」であるとは、よく言ったものです。

 

不幸なできごとに、どのようにストーリー的な意味づけをほどこすか

 先ほどの石原発言を、もう少し前の箇所から思い出してみましょう。

 〈津波をうまく利用して、我欲をうまく洗い流す必要がある。積年にたまった日本人の心の垢を。これはやっぱり天罰だと思う〉

 〈利用〉とか〈天罰〉とか、生々しい乱暴な単語が並んでいるので、読んでいるとついカッとなってしまう人もいるでしょうが、この発言からだって、引き出すべき考えかたがあるのです。

 先ほど書いたとおり、日本人が悪かったからだ、という石原さんのストーリーも、原子力発電が悪かったからだ、というもうひとつのストーリーも、まったく同じことをやっています。

 どちらも、「不幸なできごと」を前にして、悪者探しに走っています。「不幸なできごとが起こった以上、『悪い原因』が必ず存在するはずだ」と決めつけているのです。「公正世界」という誤謬です。

 そのように決めつけている以上は、だれが悪いか、どっちが悪いか、という責めあいになり、あるいはくよくよとした自責になってしまいます。

 石原発言から引き出すポジティヴなメッセージがあるとしたら、それは、この「不幸なできごと」から学ぶべきことが多々あるだろうから、せっかくだからそれを冷静に学んで、「タダでは起きないぞ」というふうに構えましょうよ、ということではないでしょうか。

 割とちゃんとしたことを言おうとしてるはずなのに、天罰という原始的な発想(原始的なストーリー構築)が邪魔をして、言いかたがザツになってしまって、傷つけなくてもいい人を傷つけてしまった。

 逆に言うと、僕たち人間の脳は、自分が納得するためなら、いくらでもこのような原始的なストーリー構築をしてしまうということです。ストーリーが人間を苦しめるのはこういうときです。

 

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