人生に「要点」とか「教訓」はあるのか?
人生について俯瞰するとき、僕たちはそれを「ライフストーリー」というストーリーの形式でとらえてしまいます。
そうすると、人生が「目的」や「動機」を備えた「筋」のある単線的な構造にとらえられて、シンプルで見通しがよくなるからです。
しかし、人生をそういう「ストーリー」に還元してしまうと、そこからこぼれ落ちるものもたくさんあります。
あなたの人生をそういう「ストーリー」の形にしてしまうとき、あなたは記憶から、特定の要素を選択しているのです。ということは、それ以外の要素を捨ててしまっている、ということでもあります。
この連載の第6回で書いたように、人生を、単一のコースをたどるレースに還元し、途中のいろんなこと──あの日見た空の青や、あの人と食べた鴨肉の食感、1歳のわが子とハグしあったときに感じたわが子の「力」や「重さ」、けさの鳥の声、夏の草いきれ、──それらすべてを、ゴールへのステップにすぎないものにしてしまっていないでしょうか?
木漏れ日、冬の夕焼け、夏の波音。
橋、白樺の林、スタジアム前の広場。
都市上空をつらぬく高速道路。
鳥居の前を通る雨上がりのアスファルト。
夜のガード下にぽつんと一軒だけ営業しているなにかのお店。
世界には素敵な光景がいくらでもあるのに、僕らはなぜそのことを忘れてしまうのでしょうか。
自分や他人の人生を「ライフストーリー」に還元してしまい、さらにそれを「要約」したり、そこから「教訓」を取り出したりして、
「自分の人生は××な人生だった」
「あの人の人生は××な人生だった」
なんてまとめてしまうとき、僕らはどれだけのものを「なかったこと」にしてしまうのでしょう?
話の「要点」とか「教訓」って、どこにあるの?
「要点」や「教訓」を導き出すという作業は、便利で必要不可欠だけれど、上記のような乱暴さも同時に含んでいます。
それはまるで、人生の一部分だけを取り出してきて、「これが自分の人生だ」「これがあの人の人生だ」と言っているようなものです。
「群盲象を撫でる」とか「群盲象を評す」という言葉は、そういう譬えでしたね。
たとえば小部経典『自説経』第6章第4節で、シッダールタ(仏陀)はサーヴァッティー(サンスクリットではシュラーヴァスティー、漢訳は舎衛城)の地で、修行者(比丘)たちに、つぎのような話をします。
──かつてこの地の王は、当地の先天的な盲者を全員集めさせ、その人たちに〈象とはどのようなものか、理解させよ〉と家来に命じた(正田大観訳『小部経典(クッダカ・ニカーヤ) ブッダの福音』第1巻、Evolving)。
象の頭を触った者がおり、耳を触った者がおり、牙を触った者がおり、鼻を触った者がおり、身体を触った者がおり、足を触った者がおり、腿を触った者がおり、尾を触った者がおり、尾の先端を触った者がいた。
王が彼らに、象とはどういうものだったかと問うと、
象の頭を触った者は「象は瓶(かめ)のようなものです」と答え、
象の耳を触った者は「象は箕(み。平たいバスケット状の道具。脱穀時に混入物を篩い落とすためのもの)」のようなものですと答え、
象の牙を触った者は「象は杭のようなものです」と答え、
象の鼻を触った者は「象は鋤のようなものです」と答え、
象の身体を触った者は「象は蔵のようなものです」と答え、
象の足を触った者は「象は柱のようなものです」と答え、
象の腿を触った者は「象は臼のようなものです」と答え、
象の尾を触った者は「象は杵のようなものです」と答え、
象の尾の先端を触った者は「象は箒のようなものです」と答えた。
彼らは意見の違いが原因でたがいに争いあった──。
話の「要点」とか「教訓」って、どこにあるの?
いまだったら障害者への配慮が……などと言われそうな譬え話で、たいていこういう譬え話は当事者に失礼な感じになってしまうのですが、さて、シッダールタはなぜこの話をしたのでしょうか?
当時、シッダールタのほかにもさまざまな思想家がいて、
「世界は永遠不変である」とか、
「世界は転変する」とか、
「世界は有限である」とか、
「世界は無限である」とか、
「心身は一如である」とか、
「心と身体はべつのものである」とか、
その他、たがいに矛盾しあった形而上学的な立場から論争が起こっていたことが、この譬え話の背景にあります。
シッダールタは譬え話のあとに、このように言います。
〈或る沙門や婆羅門たちは、まさに、これら〔の見解〕に執着する。一部分〔だけ〕を見る人たちは、その〔一部分〕に執持して論争する〉(この引用にかぎり〔 〕内補足は訳者・正田氏のもの)
これに乗っかる形で、米国の物理学者で哲学的な著作もあるデイヴィッド・ジョーゼフ・ボームは『量子論』(1951。日本語訳は高林武彦他訳、みすず書房)で、量子が粒子でもあり波動でもあるということの譬えとしてこの話を紹介しているそうです。
またフレドリック・ブラウンの短篇集『まっ白な嘘』(1953。日本語訳は中村保男訳、創元推理文庫《フレドリック・ブラウン短編集》第1巻)に収録された「四人の盲人」の冒頭で、ガーニー警部が〈わたし〉に、手がかりというものの難しさを語ると、〈わたし〉はこの譬え話を持ち出します。
4人の盲人が象を撫でて、鼻に触った者は象を蛇のようだと思い、尾に触った者は象を紐のようなものと思い、脇腹に触ったものは象を壁のようなものだと思い、脚に触った者は象を樹木のようなものだと思った。捜査員も、事件の全体像を見渡すことは難しいのだ、と。
同じ話でも、教訓のつけかたはいろいろなのかもしれません。
事件をストーリーにするのが捜査である
〈わたし〉が警部にそんな話をしていると、殺人事件の通報が入ります。
サーカスの宿衛所で支配人の屍体が発見された。リングで使う空包の銃を自分のこめかみに当てていた。
警部は言う。
〈空包だって弾のおくりを発射するんだ。それが飛び出さなくても、人間のこめかみに筒先をくっつけていれば、爆発のショックだけで充分に殺せる〉(41頁。引用者の責任で原文の傍点を太字で処理)
自殺だろうか。しかし銃は同じ時刻に続けて3発撃っている。
空包を空中に2発撃ってから3発目を自分のこめかみに撃つなんてことがあるだろうか?
遺体の着衣は乱れておらず、蠟で固めた口髭も形が崩れていない。
天井の高い広い部屋では、椅子が2脚、横倒しになっている。
開け放たれた二重扉があり、もういっぽうの出入口には閂がかかっている。
ついに警部は真相を見抜き、きみが「群盲象を撫でる」の話をしてくれたおかげだ、と〈わたし〉に言います。
しかし〈わたし〉は納得できません。
椅子の横倒しを知った第1の盲人は「格闘があった」と答えるだろう。
が、着衣の乱れのなさを知った第2の盲人は「格闘はなかった。だから自殺だ」と答えるだろう。
でも、2発の空包発射を知った第3の盲人は「自殺ではない」と答えるだろう。
しかし、第4の盲人は「犯人が被害者の手に銃を持たせて自殺を装った」と答えるだろう。
けれども、出入口としては、開け放たれた二重扉の一箇所しかなく、人の出入りは確認されていないのだ──。
あまりに状況が矛盾しすぎて、ひとつのストーリーにまとまりません。
すると警部は言います。 〈きみの考えかたの欠陥は、盲人にこだわっていることだな。きみは反対側からこの話を見ている。おれに聞かせた自分の話のポイント〔要点〕を、きみはつかみそこなっているのさ〉 〈あの物語のポイント〔要点〕は、相手が象だったということだ〉(51頁。〔 〕内は引用者の補足)
「そういう話じゃないでしょ!」と言えるか
サーカスの象は、ふだんから動物を虐待している支配人に、開いた二重扉を通って近づいた。
支配人は象に向かって空包を撃った。
象はひるまずに近づいた。椅子を倒したのは象だろう。
支配人は2発目を撃った。
部屋のもういっぽうにある出入口には外から閂がかかっていて、出ることができない。
〈それから──まあ、とにかく、象に殺されるなんて気持ちのいいもんじゃなかろうね。骨がずたずたに折られて、ひょっとしたら鋭い牙の先に内臓をぶちぬかれるかもしれない。三十秒もつか、三分もつか、どちらにしても、最悪の三十秒ないし三分間てわけだ。
最後の土壇場で奴はその苦しみから自分を救った。もう象の鼻が体を撫でまわしはじめていたんだろう、もうこれまでと観念して奴は筒先をこめかみにあてがい、引き金をひいた〉(52頁)
そういう話じゃないでしょ警部さん(笑)! 思わずつっこみたくなりますよね。
〈わたしは言った、「しかし、それでもあの話のポイント〔要点〕をあなたはまだつかみそこなっていますよ。あの要点は、盲人それぞれが同じ獣の違った部分部分をさわってみて、たがいに矛盾する印象を得たということなんです。当のものが象だったという事実は、ポイント〔要点〕でもなんでもありゃしない。よしてくださいよ」
ガーニーは言った、「それにしたって、やっぱり象だったんだろう」
「べらぼうだ」とわたしは言った、そして二人はビールを飲んだ〉
さて、僕らの人生の「本筋」はどれ?
こういうのを読むと、僕らが他人の人生、あるいは自分の人生の特定の時期に、「なにが起こったか」を要約して理解したり、そこから教訓を引き出したりすることに、「たったひとつの正解」などあるのだろうか?という気がしてきます。
「きょう、こういうことが起こった」と日記を書くとき、それは無数にある解釈のひとつにすぎません。
そして、「このことから、こういう知見を得た」と言うときもまた、可能な複数の意味づけのひとつにすぎないのでしょう。 (つづく)