前回のおさらい
前回、毎年盆と正月に祖父母の家で数日ずつ過ごすという僕の習慣が、15歳の夏休みを最後に途絶えてしまったことについて書きました。
祖母が会いたがっていることを伝え聞き、疚しさを抱えたまま、僕は祖母の死まで一度も顔を見せませんでした。
祖母は人生最後の10年間を、いちばん年下の孫の顔を見ないまま過ごしました。疚しさもまた、祖母の死後長いこと、僕に取り憑いていました。
そして僕は、祖母に顔を見せなかった自分の動機を、長いあいだ自分でも説明できませんでした。
いっぽう、15歳の夏休みに風呂で、頼んでもいないのに祖母に全身を洗われて、それを断ることができなかったという体験もまた、長く僕のなかに説明不可能なできごととして残り、ときどき思い出しては説明できずにまた忘れる、ということを長い年月、繰り返しました。
そして(これはいかにも不思議なことなのですが)、あの夏の祖母の行為と、僕が祖母に顔を見せなかったこととは、僕のなかでこれまた長い年月、まったく繋がらなかったのです。
前の連載「人生につける薬 人間は物語る動物である」の終わりに近づいた2016年11月の、ある晴れた午後まで。
性暴力としての意味づけが遅れた理由
いまの読者には、これが性暴力だということが自明すぎて、僕がなぜその場で断れなかったのか、僕がなぜ30年以上もそれを性暴力と認知できなかったのか、ということがご理解いただけなかったら悲しいなあと思いますが、
これ、伝わってますかねえ。
前回僕は、村田沙耶香さんの長篇小説『地球星人』(2018、新潮社)から
〈すこしだけおかしいことは、言葉にするのが難しい〉(44頁)。
という文を引用しました。
〈すこしだけおかしい〉と思っても、自分のほうが〈自意識過剰なのかもしれない〉と思ってしまうのだ、と。
これらの言葉は、語り手兼主人公である〈私〉奈月が小学校高学年のときに、通っている学習塾の講師である男子大学生によって性暴力の被害を受けたときに出てきます。
前回書いたように僕は、「女性が男性を性暴力で加害する」というスクリプトを長いあいだ持っていなかったので、自分の身に起こったことに意味づけをすることができなかった。自分の身体が厭がっていることに、それくらい鈍感だったのです。
僕は僕の体に申しわけないことをしました。
そういう男性は多いと思います。
いま、世界の一部の人たちの「世界観」「手持ちのストーリー」が変わりつつある
けれど、この世界には「男性が女性を性暴力で加害する」というケースだけでなく、逆に「女性が男性を性暴力で加害する」というケースもあるのだという事実が、少しずつではありますが、だんだん受け入れられるようになってきました。
フェミニストの映画監督キャシー・ジェイが女性による男性への加害を追ったドキュメンタリー映画『レッドピル』(2016)は、フェミニズム的観点から見てけしからん!という理由でオーストラリアで初回上映を禁止されました。旧共産圏ばりの表現弾圧の事例です。
それでも、その映画はオーストラリアで、翌2017年に公開されています。時代は少しずつ動いています。
いま、世界の一部の人たちの「世界観」「手持ちのストーリー」が変わりつつあるのです。
若い世代の男性たちは、そしてもちろん女性たちも、自分の身体が厭がっていることを、あの日の僕よりも敏感に察知することができるはずだと思います。
「男性加害者・女性被害者」という図式だけでなく、相手が祖母という親族だったことによってもまた、僕は長いあいだ、あのできごとを意味づけようとしていました。
「祖母というものは孫の世話を焼くものだ」
という一般論から導き出されるスクリプトを後生大事に抱えて、
「だからあの行為は親心(祖母心)に発した親切である」
と意味づけようとしていたのです。
さて、祖母の行為は、僕が長らく意味づけていたような「たんなる親心(祖母心)に発した親切」なのではなくて、2016年11月のある晴れた午後に僕の上に突然降ってきた新しい意味づけの示すとおり、「性暴力」「セクハラ」である、ということなのでしょうか?
ストーリーはできごとの経過それ自体ではなく、経過を特定のアングルから意味づけた結果
「親切」か「性暴力」か?
じつはこの二者択一の問は、贋の問です。
このできごとを「たんなる親切」と取るか「女から男へのセクハラ」と取るか、というのは贋の問というか、どっちから見るかってだけの話なんです。
なんなら、僕自身は、祖母に性暴力加害の意図はなかっただろう、と思っています。
祖母のストーリーにおいては、あのできごとはたんに、「親心(祖母心)に発した親切」にほかならないものだったのだと思います。
当時からおととしまで僕が構築しようとしていたストーリーのなかでも、やはりあれはたんに、「親心(祖母心)に発した親切」であるはずのものでした。
そして2016年11月以降の僕のストーリーにおいては、あれは「女から男へのセクハラ」です。
ストーリーとは、できごとの経過それ自体ではなく、経過を特定のアングルから意味づけた結果なのですから。
「たんなる親切」と「セクハラ」は両立しうる
暴力というのは、加害者にその意図がなくても、たんなる知識不足でも起こってしまう。
暴力のうちのかなりの部分が、加害者が暴力を発揮しようと意図することによってではなく、加害者側に「これは暴力になりうる」という知識が欠如していることによって起こってしまいます。
祖母の行為が善意に発したものであっても、彼女が僕にたいしておこなったことは、僕から見て性暴力であると言い切ってよい。
そう思うようになった瞬間、祖母に感じていた不可解さ、気味悪さは消え、それに代わって僕が彼女にたいして抱いた感情は、恨みでも憎しみでもなく、憐れみでした。
僕も知らなかったけど、彼女も知らなかったのです。単一の行為のなかで、「たんなる親切」と「セクハラ」は両立しうる、という事実を。
各人が持っている一般論=世界観(⊇スクリプトの集合体)は、よく見ると人によって違っている部分があります。だから、「ここから先は厭がらせ・暴力・ハラスメントになる」という「ここ」の場所が、人によって違うのです。
それを統一することができるのかどうか、というのは、この連載の射程を超えた公共哲学の圏域に属する問題のようです。
この連載で言えることはせいぜい、
「ストーリーは、特定の立場から見たストーリーにすぎない」
という、とても慎ましい命題にすぎません。
どんなに慎ましくてもこの命題は、僕にはなにより尊いものに思えます。
被害者は、べつの場所で加害者でありうる
ですから、僕が自分を被害者と自覚したということは、僕が「被害者意識」を持ったということではありません。
むしろその正反対です。
祖母が自分にとって加害者であったということがわかった。そして祖母にその自覚がなかったということは間違いなさそうだ。そう考えると、この僕もまた日々、無自覚に他人に害を加え続けている可能性は高い、ということに思い当たらないわけにはいかなかったのです。
自分がひとつのストーリー(世界解釈+自己像)をしか生きられない、ということは、そのストーリーの外側をいまこの瞬間に知ることはできないということであり、そしてその不可知の「外側」は無限なのです。
「加害しない純粋な被害者」に自分を擬するなんていうことは、僕にはどうもできそうにありません。
罪悪感を持たせるシステムから逃げること
僕の〈体〉はおそらく、あれが性暴力であることを知っていました。だから浴室で居心地が悪かった。きっと不快だったのです。
しかしその不快を僕がきちんと自覚できなかったのは、僕のなかの一般論──既知のストーリー群の基盤──が、
「祖母が孫の体を洗ってあげるのはたんなる親心(祖母心)に発した親切なのに、それを忌避したり、まして性暴力と意味づけるなんて、なんという不孝ものだ」
と僕の〈体〉を拒否し、僕が不快をきちんと自覚できないようにしたのだと思います。
そして僕はそこから、
「だからそれを気持ち悪いと思ってしまった自分は、自意識過剰で人情のわからないダメな孫だった」
という自責のタネを引き出して、長いあいだ自分を罰しつづけていたのです──。
というほど大袈裟なものではなくて、思い出すたびに疚しい気持になっていた、という感じのことなのですが。
それでも以下のことを、この場を借りて強く言うことにします。
人間は物語る動物ですが、その「物語る」という行為で自分を苦しめることもあるのです。
人に罪悪感や疚しさを抱かせるストーリーやシステムからは、一刻も早く遠ざかることをおすすめします。
「被害者意識を持った人」は、周囲の人に罪悪感や疚しさを抱かせ、自責させようとします。
もしそういう人に責められてしまったら、たとえあなたが加害者であったとしても、いっさい自責せずに謝罪だけして逃げましょう。
もしその「被害者意識を持った人」があなたの頭のなかにいて、あなたの過ちをあげつらってあなたを自責に追いこむようであれば、
「このストーリーは、特定の立場から見たストーリーにすぎない」
ということをどうか思い出して、自責から抜け出す方法を探ってください。
(つづく)