「正しさ」について
斎藤 それは、戦略的につくったテンプレートの力というものも大きいのかと思いますが、川上さん、テンプレートとしての小説というスタイルについては、どう思われますか。
川上 小説の魅力はいくつもあって、共感というのはとても強い要素ですよね。人に伝えたくなるとか、これは自分のことが書かれているとか。
例えば、泣けるというのも共感によるもので、この本の魅力の大きなところですけれども、もう1つ重要な要素として「正しさ」があると思うんです。
ジヨンというキャラクターが置かれている状況に対して、どんどん精神的にしんどくなっていくという過程も含めて、何もかもが正しいんですね。そのように小説全体が打ち出すメッセージも、読者の反応まで含めてとても正しい。作者もたぶん読者もその受け取りかたを間違えないですよね。政治的にも、フェミニズム的にも、個人的にも正しい小説になっていると思います。
私がぜひ伺ってみたいなと思ったのは、その意味で、小説が持つメッセージと、それを読む読者の関係が「正しさ」でぴったり結びついた小説を書くことは──つまり小説と読者の関係がいっさい不安になりようのない小説を書くことは、なかなか勇気がいることではないかという点です。
韓国と日本における文芸の捉え方や書き手の意識の違いにも繋がるのかもしれませんが、そんなふうに「正しい小説を書くこと」についてはどんな風に思われますか。もちろん戦略的に考えておやりになったのだろうと思うのですが、そのあたりはいかがでしたでしょうか。
女性の記憶を書き残したいという欲望
チョ 最初に書き始めたとき、私は小説だと考えて書きましたが、「小説を書こう」と思って、考えて書きました。ですが、これを読んだ方が「小説だ」と捉えなくても構わないと思いました。「これは小説ではない。何かの事例集のようだ」「ルポのようだ」「エッセイのようだ」と受け止めてもらっても構わないと思いました。
ですから、書店でこれが小説のコーナーに置かれても、または、人文社会のコーナーに置かれても、エッセイのコーナーに置かれても、それは私にとって重要なことではありませんでした。
出発点は、「小説を書きたい。では、どんなテーマを描いていくか」というところから始まっているのではなく、「女性の人生を書きたい。それも私と同世代を生きている、同じ悩みを抱えながら生きている女性の人生を、歪めることなく、卑下することなく、非難することなく、ありのままに書き記したい、書き残したい」という思いでした。私たち女性の悩みを記録として書き残したいという欲望が大きかったので、こういう形の小説になったのではないかと思います。
また、ある意味、私は小説や文学の世界についてあまり知らなかったからこそ、勇敢になれたのかもしれません。文学を専攻したわけでもないですし、以前、文学に携わる仕事をしていたわけでもなかったので、ある意味では、自分が本当に伝えたいこと、語りたいことに集中できたからこそ書けたのではないかと思います。
幸いにも、読んでくださった多くの読者の方々が、この小説に支持と共感を送ってくださったので、読者を通じて私はこういう書き方に確信を得ることができましたし、力を与えられたと思っています。
川上 小説を書くときの動機は無数にあると思いますし、また何をもって文学とするとか小説の定義とかいろいろな判断があると思いますが、ナムジュさんが何かを書こうとしたとき、必然的にこのような形になった、このような形になる以外なかった、そういう幸福な成り立ちを持った一冊であることが、いまのお話を伺って理解できました。それが多くの読者の共感を集めたということも、この本にとって幸福なことだったと思います。
