ボッティチェッリの裏庭


働く人はみなアーティストなんです
『ボッティチェッリの裏庭』刊行記念インタビュー

日経小説大賞を受賞したデビュー作『野いばら』から8年。約2年に一冊と寡作ながら、常に端正で緻密な物語世界を創ってきた作家・梶村啓二さん。4作目となる新刊『ボッティチェッリの裏庭』刊行を記念して、創作の裏側をうかがいました。(聞き手=瀧井朝世)

ボッティチェッリも労働者だった

──日本人のタカオが謎の男から、死んだ親友、フランツが所持していた絵画を見つけ出すよう脅される。その物語と同時進行で、ボッティチェッリと親交があった一人の女性の手紙が挿入されていきます。梶村さんの新作『ボッティチェッリの裏庭』は、ルネサンス期のフィレンツェの巨匠、ボッティチェッリの幻の絵画をめぐる物語。この物語の着想を得たきっかけを教えてください。

梶村 30歳前後だったか、フィレンツェに行った時、ウフィツィ美術館に行って、ボッティチェッリの「プリマヴェーラ」の前で凍りつく30分間というのを体験しまして(笑)。それが出発点だと言えますね。

──圧倒されたということですか。

梶村 はい。もちろん画集で「プリマヴェーラ」を見たことはありましたが、実物に生身で接する体験は別物。限りなく華やかで美しい、なのに果てしなく悲しいという矛盾に満ちた体験でした。それまでボッティチェッリのことが特別気になっていたわけではなかったのですが、それ以来、彼があれだけ華やかで美しい絵を描いておきながら、晩年の10年くらいは別人のような暗い作品を描いていること、その落差が大きな謎に感じられるようになったんです。当然気になっていろいろ調べたのですが、本人が残した言葉もなく、歴史的な資料も断片的な傍証しかない。これまで誰もその落差を合理的に説明した人がいないんです。それがずっとひっかかっていました。

 その後、パオロ・ヴェロネーゼというヴェネチア派の画家の異端審問のことを知りました。彼はボッティチェッリが亡くなって20年ほどあとに生まれた人ですが、「最後の晩餐」の絵に当時の庶民の姿も描きこみ、それが不敬だということで異端審問にかけられた。その審問の冒頭のやりとりで、「職業は?」と訊かれて彼は「ラヴォラトーレ(労働者)です!」と元気よく答えたというんです。あれだけゴージャスなアートを残している画家が自分を「労働者だ」と言ったと知り、長年の謎が解けたと思いました。美術史上の巨匠というと華やかなセレブリティをついイメージしてしまいますが、当時の画家たちは権力者の発注に応じて美という商品を差し出す労働者だったんですね。メディチ家という権力の中枢の側近だったボッティチェッリも労働者だった──そう考えると彼の作風が変わったのも、おそらく発注者の変化があったのだろうと分かります。特に彼が生きた時代は変化が激しく、権力者がころころと変わっていましたから。

 権力の変転の激しさはどの時代も変わりません。働くということも人間の普遍的存在形式です。美や才能と権力の切っても切り離せない関係が人間社会にある限り、すべての時代の働き手はその緊張関係の中で生きるアーティストだとも言えるんじゃないか。15世紀の一人のアーティストの苦悩と喜びは、すべての働き手の苦しみと喜びのメタファになりうる。物語はその発見からふくらんでいきました。この作品に出てくる21世紀の電機メーカーのタカオさんも、ナチスに協力する20世紀の学芸員も、みんな自分の才能と時の権力との緊張関係に生きたアーティストなんだ、と。そんな世界を書こうと思ったものですから、自分としては、これはアート小説だとかミステリーだとは思っていないんです。最初につけたタイトルは「ウェヌスとマルス」、美の神と武力の神という意味です。伝わりにくいということで現在のタイトルになりましたが、互いに惹かれ合う異質な者同士の話として書きました。

──ああ、だからタカオさんは“労働者”なんですね。総合電機メーカーの技術系職員である彼は、デジタル画像処理ソフトウェアの開発をしていますが、事業の縮小により窮地に立たされている。絵画を探しながらも並行して自分の業務や転職についての話も進めている様子がリアルでしたね。

梶村 ドラマティックなエンタメにするならヒロイックな主人公にするのかもしれないけれど、タカオさんは普通の人です。真面目で、自己抑制の人。実際に生きている人は自分の生き方をイマジネーション幅広く考えるものではなく、目の前に降りかかった困難を払いのけて元に戻ろうという、狭いことを考えるもの。フランツの妻であったカオルのことを密かに愛してきたけれど、愛情表現も抑制的で、うじうじしていますよね(笑)。

関連書籍

啓二, 梶村

ボッティチェッリの裏庭 (単行本)

筑摩書房

¥1,980

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