「洋画」の巨匠、小出楢重は昭和六年、亡くなった。谷崎潤一郎の訪問を受けた後に容態が急変したというから、たいそう突然であった。小出は大阪の男らしくきわめてユーモラスで座を沸かし、多くの人が慕っていたという。岸田劉生は日記できっぱり「下人」と書いたけれども大家を気取らぬ性格が、そんな印象になったのかもしれない。小出は、自ら撮影したホームムービーでも人間味あふれる姿を残しているが、サイレントであるため、その声はわからない。重子夫人によると、話は決して流暢ではなかったという。「アノアノ」と、口をついて出たというのだから、朴訥とした親しみある話術だったのだろう。突然訪れた死に際しても「アノアノ」は健在であり、実際それが最後の言葉だったと夫人は伝えている(小出龍太郎『小出楢重を慕う人々』)。何か言いかけたのだろうが、言えずじまいだった。肝心な時に、と周囲はびっくりしたのではないか。私は小出に会ったことはないが、彼の人柄が、その最後の「言葉」にすっかり保存されていると思える。
最後の言葉は、計算して出るものではない。予行演習をしたとしても、その通りに出るとは限らない。何気ない、平凡な日常の言葉が、小出のように最後になる、それが普通だろう。カントは葡萄酒を薄めたものを飲み終えて「よろしい」と言ったのが最後の言葉だったという(山田風太郎『人間臨終図巻』)。最晩年まで長編小説を連載していた石川淳は入院の都合で食事抜きになるのが不服で「今日は晩飯はないのか」と夫人を睨んだのが最後の言葉だったという(荒俣宏監修『知識人99人の死に方』)。病床の、朦朧とする意識の中で、「隣へ行って仕事をする。仕事をさせてくれ」と言ったのが夫人の耳に残った手塚治虫の最後の言葉だというのはあまりに有名な話である(手塚悦子『手塚治虫の知られざる天才人生』)。のっぴきならぬタイミングであり、シリアスな現場であるはずだが、文字どおり命がけのユーモアの影が、遠慮なくのびるようにも思えるのは、彼らの人柄が漏れ出ているからだろうか。聞き手がいたからこそ残り、書き付けられて読者を得るに至った。偶然でもあり、必然でもあるような、言葉というものの本質が、最後の言葉には出ている。
絶筆とか遺書とかは書かれたものとしてあらかじめ存在しており、自然に「読者」が出てきてしまう。しかも、いくらかいつも真面目すぎ、私はあまり好きじゃないジャンルだ。田村隆一の絶筆は「死よおごる勿れ」と書き付けたメモである。食道癌で亡くなる当日に書かれたものであるが、死の直前に書く言葉として勇しすぎる。けれども、実は、田村の筆はそこで終わらなかった。律儀にクレジットを添えるのである。そのことによって「死よおごる勿れ」というフレーズが、私と四〇〇歳、年齢の離れたイングランド詩人からの引用であったことがわかる。「――ジョン・ダン」というように、ダーシとナカグロも忘れぬ、その瞬間の、田村のユーモア精神が私は好きである。小出の享年をとっくに超えた私はCOVID-19の蔓延により、死をこれまでより身近な存在に感じるようになっているが、お迎えが来た時には、アノアノと何か言いかけたまま口をつぐみ、「死よおごる勿れ ――ジョン・ダン©田村隆一」と書くつもりだ。
PR誌「ちくま」7月号より福永信さんのエッセイを掲載します。