ちくま新書

アメリカのジャーナリズムの混迷と希望

テレビニュースの舞台裏、トランプ大統領を生んだリアリティテレビ、FOXニュースに潜入したスパイ、鋭い政治風刺を繰り広げるコメディアンたち、そして大統領選の行方をも左右する移民メディア、アメリカのテレビと選挙の現場を知り尽くした著者が解き明かす、メディア大国アメリカの知られざる姿とは。ここでは「はじめに」を公開いたします。

アメリカメディアの没落?
 かつてアメリカのテレビニュースは日本の放送ジャーナリズムのお手本だった。ベトナム戦争への否定的報道でジョンソン政権のホワイトハウスを震え上がらせたCBS放送ウォルター・クロンカイトの「CBSイブニング・ニュース(CBS Evening News with WalterCronkite)」、インタビューを衛生中継「公開尋問」にしてしまったABC放送のテッド・コペルの「ナイトライン(Nightline)」、勧善懲悪型の「調査報道」の草分けとされるCBS「60ミニッツ(60 Minutes)」など、いずれも権力と対峙するジャーナリズムの中心を担ってきた。
 ニュースのフォーマットもアメリカ式が目指すべき最終形態だとされ、それにより日本の放送ジャーナリズムの質の底上げが実現されてきた。アナウンサーの影に隠れがちだったテレビ・ラジオの放送記者を世に知らしめることを意識した放送界の先人もいた。
 平野次郎『テレビニュース』(1989年)は放送ジャーナリズム論のテキストとして今でも必読の価値がある。NHKの記者だった平野氏は、新聞記者がペンで記事を書くように、放送記者はマイクを握り、自分の原稿を伝えるべきだと喝破した。記者が書いた原稿をアナウンサーが読む、いわゆる「アナ読みニュース」が支配的だった日本で、アメリカでは当たり前のこととして定着していた「記者読みニュース」を浸透させるべく、平野氏は和製英語の「キャスター」ではなく、アメリカ式に「アンカーマン」と自称した。昭和と冷戦が歴史になり、平成が始まった頃だった。
 あれから30余年が経過し、ニュースをとりまく状況は時代とともに変化した。
 一つは、日本のテレビジャーナリズムが、結果としてアメリカの放送ジャーナリズムのスタイルとは少し違う方向の「独自の進化」に舵を切ったことにある。1980年代までNHKが牽引してきた日本のテレビニュースの世界は、民間放送のニュース番組の台頭で相対化されていった。アナウンサーが淡々と読み上げるだけのニュースの割合は減っていったものの、アメリカ式に記者リポートの数珠つなぎだけで構成される番組にはならなかった。スタジオでフリップや模型を使い、コメンテーターという「ご意見番」と共に解説する、スポーツから天気予報までが詰め込まれた日本式の総合ニュース番組が視聴者に好まれるようになった。
 また、「ワールドビジネスサテライト」(テレビ東京系列)のような経済に特化した総合ニュースも長寿番組化した。これは本来アメリカであればCNBC(経済専門ニュースチャンネル)で放送されるような角度をつけた専門番組であり、地上波でしかも深夜枠での成功はビジネス大国の日本らしい現象だった。
 もう一つは、アメリカのテレビ界の急激な変化だ。1980年代までのアメリカは三大ネットワークの栄華の時代だった。その後、湾岸戦争や天安門事件など国際報道で底力を見せたCNNの伸長で、24時間ニュース専門のケーブルテレビが主流になった。1990年代に保守系のFOXニュース(FOX News Channel)が誕生し、保守・リベラルの政治イデオロギーを押し出して伝え、報道機関の「中立の放棄」が蔓延した。テレビの影響力は完全に衰退したわけではないが、個別のリポートだけをネット配信するニュースのセグメント売りも加速化している。テレビニュースの景色はだいぶ様変わりした。
 最先端のアメリカのテレビジャーナリズムには、スター的なアンカーやインタビュアーの偶像化や神話化が基本にあったが、メディアリテラシーの浸透でテレビの属人的な神通力が効かなくなりつつある。社会が多様化し「テレビ有名人」がニュース業界では成立しにくいなか、20世紀的なテレビの視聴習慣が薄れ、看板ニュース番組の「著名」アンカー(キャスター)の名前を知らないアメリカ人も若い世代にはどんどん増えている。
 本書はアメリカのメディアとりわけテレビの事情に焦点を絞る。それは日本のモデルであり模倣の対象だったアメリカのテレビニュースの発展、没落と混迷、希望を見届けておくことが、トランプ政権以後のアメリカを考えることとも表裏一体になっているからだ。発展はともかくとして、没落と混迷とは何か。

テレビジャーナリズムは3回死んだ
 アメリカのテレビジャーナリズムはすでに何回か死んでいる。
 一回目の死は、1990年代後半から顕著になったニュースのエンターテイメント路線である。アメリカではニュースの商業化の末路として、アンカーのタレント化、ニュースのタブロイド化が末期症状を迎えた。
 それは、かつてNBC放送の敏腕女性記者として活躍し、CNN副社長にまで昇り詰めたボニー・アンダーソンが早期から警鐘を鳴らしてきた問題だ。アンダーソンは、2004年にアンカーの選抜基準や契約金の額まで晒す暴露本に近い『ニュース・フラッシュ』という業界批判の書を記して、テレビニュースに絶望して失意のまま業界を去った。それから11年後、2015年にNBC放送の旗艦的番組「ナイトリーニュース(NBC Nightly News)」のアンカーマンによる「虚言事件」が明るみに出た。しかし、NBC放送は短期間の謹慎処分だけでこのアンカーを現場復帰させ、報道倫理の歴史に悪しき前例を残した。アンダーソンの警告は現場にも視聴者にも響かなかった。
 2回目の死は、1980年代から1990年代にかけて激しくなった政治コメンテーターの跋扈によるジャーナリズムの腐敗だ。具体的には、ディベート番組〝もどき〞の乱立と、政治広報と報道の境界線の消失である。ここでは、政治コンサルタントのメディア利用にジャーナリズムが巻き込まれた。ジャーナリストのジェームズ・ファローズが先駆的に警鐘を鳴らしてきた問題だ。これはのちに、放送の規制緩和で増殖した政治トークラジオの「テレビ化」により生まれたFOXニュースとオピニオンショーの全盛をもたらし、そして左右対立を軸にしたアメリカの分極化を加速した。
 さらに3三回目の死として、決定的だったのは2001年9月11日にニューヨークとワシントンを直撃した同時多発テロ、9・11である。9・11後、アメリカのメディアは愛国一色に染まり、どこかおかしいと感じた若者から順にテレビニュースから離れていった。

9・11後の醜態
 折しも、9・11の一年近く前の2000年大統領選挙特番の夜、ネットワークのニュースは民主党の候補だったアル・ゴア副大統領の当確を打ったかと思えば、共和党のブッシュ息子が勝利したかもしれないと、一晩に「誤報」を何度も繰り返し、視聴者を混乱に導いていた。当確速報というテレビには死活的な分野で信頼を失ったのだ。その後にフロリダ州と司法で展開された「再集計」問題は、候補者の遊説と支持率を追うだけの「競馬レース」中継で選挙を伝えてきたネットワークの経験値をおよそ超えていた。
 ただでさえネットの浸透で視聴率が低下傾向にある中、アメリカのリベラル系メディアはイラク戦争に歯止めをかけず、自殺行為の上塗りをした。まるで総じてFOXニュース化であった。ウォルター・クロンカイトという神様扱いをされていたアンカーの正統な後継者で「ミスター・アンカーマン」的な存在だったCBS放送のダン・ラザーは、この風潮に反発してブッシュ大統領批判に固執し、大統領の州空軍での特別扱い疑惑を報じた。しかし、スクープを焦るあまり証拠不足での勇み足となり失脚する。その名誉は、当時の番組プロデューサーの自伝に依拠した映画「ニュースの真相(Truth)」(2015年)が公開されるまで長く回復しなかった。
 アンカーの「TVバニー」化(「可愛いテレビうさちゃん」化)、元政治スタッフによるニュース解説の党派的な偏向、9・11後の言論の一元化が相次ぎ、その反動として保守とリベラルに分極化したオピニオンショーが花盛りを迎えた。均等に双方の立場の意見を戦わせるディベート番組は姿を消し、片方に限定してオピニオンを流す「独り語り」が好評を得ている。いつの間にか「ジャーナリスト」の定義が拡大し、現場取材歴のない人が「報道」の枠でジャーナリストのようなふりをしながら、「ニュースのような論説のような」曖昧な位置づけの番組で、毎晩のように右か左に偏ったオピニオンを吐き続ける。
 テレビ報道のネット動画化と揶揄する向きもあるが、オピニオンだけなら、むしろユーチューブ(YouTube)などに特定の角度で深掘りした興味深い動画は存在する。取材網の底力を放棄した報道のオピニオンチャンネル化は、テレビジャーナリズムの生き残り秘策どころか、ユーチューブの周回遅れの後追いに陥り、報道機関としての信頼と視聴者数の双方を失う可能性もある。
 他方で、「3回死亡した」テレビジャーナリズムへのアンチテーゼとして花開いたのが、もともとアメリカにある風刺文化を土台にした、ニュータイプの政治的コメディ番組だった。
 あるコメディアンは「擬似ニュース番組」という形態で、9・11後の政権への腰抜け的な報道姿勢に終始するテレビニュースを風刺した。またイラク戦争批判で地上波レギュラー番組の打ち切りに追い込まれた別のコメディアンは、規制が緩いケーブルテレビに活動の場を移し、さらに過激なブッシュ政権批判を繰り出し、むしろ視聴者の圧倒的な支持を得た。彼を切り捨てた地上波の自主規制は、「視聴者のため」を装いながら、テレビ局の事なかれ主義に過ぎなかったことが露呈した。
 ジャーナリストではないコメディアンがニュースを模倣した「擬似ニュース」を披露することを、当初こそ伝統的なジャーナリストは戒めた。だが、次第に主流メディアはコメディアンの風刺の影響力を認めざるを得なくなり、政権批判で彼らの発言に依存するという逆転現象が生まれる。

エスニックメディアとは何か
 また、アメリカには表のメディアの裏側にもうひとつの「見えないメディア」がある。移民大国らしく、民族・人種あるいは宗教ごとに読者や視聴者を持つ「エスニックメディア」である。アメリカ人は表のメディアで社会全体や国際情勢の動きを知りつつ、ローカルの足元のコミュニティに関しては「エスニックメディア」も手放さない。双方の動向を両睨みしないと、アメリカのメディアの全体像は見えてこない。
 筆者は、2000年にニューヨークの民主党陣営で大統領選挙と上院選挙の集票対策の仕事を行ったことがあるが、そこで立案と実施を担当したのがアジア系「エスニックメディア」を介して候補者への支持を売り込む広報戦略だった。
 あれから20年が経過し、中国の台頭やプラットフォームの多様化でアジア系のメディアは激変期に入っている。脱テレビの時代にあって、あえてチャンネル拡大を目指すテレビがアジア系エスニック局にあるのはなぜか。テレビが衰退する一方で、新移民や特定のエスニック消費者への広告効果が見直されつつある。しかし、諸外国による水面下のプロパガンダ戦がローカルの「エスニックメディア」に入り込んできたとき、古き良き伝統でもあった「エスニックメディア」はコミュニティのためのジャーナリズムであり続けられるのか。
 2016年以降のドナルド・トランプやバーニー・サンダースに対する強い支持は、ワシントンの権力の一部に溶け込んでエスタブリッシュメント化した主流メディアへの人々の不満も体現していた。したがって、ネット上での「フェイクニュース」の蔓延とトランプ政権の誕生が、アメリカのテレビジャーナリズム「4回目の死」だと考える向きもあろう。
 本書ではこうしたアメリカのジャーナリズムの停滞を批判的に振り返りつつ、それを元の状態に戻そうとする「抗体」としての力にも光を当てることで「見えないアメリカのメディア」を可視化してみたい。
 前半ではテレビジャーナリズムの矛盾と行き詰まりを扱う。第1章ではテレビニュースの構造問題、第2章では政治メディアと広報の関係、第3章ではテレビにおける言論の問題をそれぞれ照射する。後半では「復元力」の可能性を扱う。第4章では、アメリカ固有のジャーナリズムとしての風刺、第5章では、移民メディアの多様性とその変容を確認し、終章で民主主義の要としてのジャーナリズムの価値の所在を検討する。

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