小学五年生の時だろうか、リモコンの「音声切替」を押すとテレビの音声を中国語吹替から日本語に切り替えられることに気付き、以来、日本のアニメは日本語で観るようになった。日本語が全く分からないくせに、そのリズミカルな響きと声優による抑揚に富む演出に、まさしく一目惚れならぬ一耳惚れしたのだ。日本語を学び出したのはその数年後だが、テレビで聞いてきた美しい音の連なりを自分の口で実際に発音できた時の感動は、今でも忘れられない。日本語は話すと楽しくなるのだ。
抱歉(バウチェン Bàoqiàn 失礼)、つい自分語りをしてしまった。この本を読むと、「中国語を話すと楽しくなる」という著者が中国語への愛着を語っている時の喜びに満ちた顔が思い浮かび、自分も日本語の初体験を思い出したのだ。それだけ、この本は中国語への愛に満ち溢れている。「中国語は活用しない」「過去形がなくても歴史は語れる、未来形がなくても夢は語れる」「声調は歌みたい」――著者の新井は、中国語の魅力についてそう綴っている。「カラオケは歌えて中国語が出来ないはずはない」「十億人も話せるのだから難しいはずがない」といった「ほんまかいな?」と首を傾げたくなるような主張も、深い中国語愛から来るご愛嬌である。
なるほど中国語初心者向けの入門書か、と思ったらそれにはとどまらず、第三章からいきなり知識の密度が高くなる。書き言葉と話し言葉との乖離が大きい中国語だが、歴史を振り返ると尚更のことで、互いに通じない多種多様な方言からなる庶民の話し言葉は、専ら士大夫と呼ばれる中間支配層によって独占された書き言葉と大きく分断されていた。しかしだからこそ、例えば千年前にタイムスリップしたら、話し言葉こそ通じないものの、漢文と漢詩の教養さえあれば知識人とは筆談できるという不思議な現象が出来上がる。その仕組みの秘密を、悠久の中国語史を紹介する第三章が丁寧に読み解く。
日本語では日本語のことを「日本語」としか呼ばないが、中国語では中国語のことを様々な名で呼ぶ。「中文」「漢語」「国語」「普通話」「華語」「華文」「官話」「マンダリン」、多岐にわたる呼称の存在は、中国語という言語にまつわる諸事情の複雑さを物語っている。第四章は中国から離れ、北米、マレーシア、シンガポールで使われている「華語」と、各地域の独特な言語事情について紹介している。
この書評を依頼された時、私は金庸の武侠小説『射鵰英雄伝』を読んでいた。金庸の小説は異なる地域に住み、様々な方言を話す華人に広く共有され読まれているが、それを物理的に可能にしたのは他ならぬ、漢字という稀有な書字システムなのだ。本書の第五章は、甲骨文字から簡体字に至るまで、四千年にわたる漢字の歴史を辿る。倉頡が漢字を作った時に「天は粟を降らせ、鬼は夜に泣いた」という有名な神話について、著者は漢字の発明を「エデンの園からの追放」「バベルの塔以上の原罪」に喩え、文化大革命に言及しながら「始まりから一貫して悲しさの予感がしみついている」と述べている観点が面白い。
紙幅の関係で詳細は省くが、第六章では台湾と南洋、第七章では香港の言語事情について紹介している。「台湾華語」「台湾語」「客家語」「広東語」「半唐番」「三及第」「粤語白話文」といった広大で多彩な言語世界は、正に百花繚乱。第八章では再び中国語そのものに立ち返り、言語に込められている宇宙観を紹介。方位の尊卑関係、左右対称へのこだわり、漢字の神格化、陰陽二元的な世界観、数字「八」への信仰など、「言語は道具に過ぎない」といった凡庸な俗説を乗り越え、中国語の「心」へ深入りしていく。時代が変われば、言葉もまた移り変わる。他者に対する呼称の変化も、新しい漢字や挨拶表現の誕生も世相の変容の反映であり、そういう意味では、言語自体が一種の歴史書なのだ。大好きな中国語の前世今生(チェンシー/ジンシェン Qiánshì jīnshēng 前世と現世、転じて、過去と現在)を、大好きな日本語で書かれた本書で辿ることができて、幸何如是(シン/ハー/ルーシー Xìng hé rúshì これほど幸せなことはあるだろうか)!